松原植民地=56年目の追憶=連載〈5〉=日本で松原手伝った梅田さん=「移民事業は国のためだが、親不孝」

ニッケイ新聞 2009年1月23日付け

 日本で松原の「かばん持ち」をしていた梅田幸治さん(和歌山、84、モジ市在住)は、一九四一年にクリチーバに移住した兄の梅田礼資さんから松原の手伝いをする旨の手紙を受け取った。移民事業に携わりたがる人が誰もいなかったことから、義理深い叔父の田丘耕(たがやす)さんと一緒に移民の導入に携わった。
 二人は五二年に帝国ホテルで松原に会い、天皇陛下に謁見した後、和歌山へ。続いて、当時の和歌山県知事の小野真次氏に移民受け入れを要求したが、成功しなかった。
 吉田茂首相(当時)に移民導入の話をしたが、うまくいかず、副総理の緒方竹虎氏に話し了承を得た。このとき、松原の話が下手だったために、付き添っていた田丘さんが説明していた。
 「松原さんは悪い人ではないけどエライ人とのコネはうまかった。金の力ではせずに賢い人だった。松原さんは国を代表して成功した」と、梅崎さんはその人物像を語る。
 また、松原とヴァルガス大統領の関係について「松原さんは、ヴァルガス大統領に自分の息子の名前を付けてもらったことでさらに仲が良くなった」と話した。
 一方で「一切お金を出さない人だった」という。松原の日本滞在費用は田丘さんと梅田さんの父親が負担。唯一自分で支払ったのは、帝国ホテルで最後の夕食を一緒に食べた時だけだった。そのほかには、羽田空港からブラジルへ行く際「持って行っても仕方ない」との理由で小銭を受け取ったぐらいだ。
 日本で一緒にいる時、梅田さんは松原から「ブラジルに行くことで親の死に目には会えない」と言われ、「移民事業は国のためにはなるが、親不孝」との言葉が印象的だったという。梅田さん自身も、ブラジルに移住したため親の死に目に会えなかった。「天皇陛下に謁見し、叔父などのおかげで、移民の送出しが成功した」と振り返った。
 五四年に病気療養の理由などで帰国した松原に対する日本政府の対応が五六年のパウリスタ年鑑(パウリスタ新聞社)に掲載されている。
「戦後の日本移民再開功労者として松原安太郎氏が黄綬褒章を受けた。松原は周知の通り故ヴァルガス大統領との親交関係から中部ブラジルへ四千家族の日本移民を導入する許可を得て移民事業を始めた。しかも資金難、政変などが患いして所請『松原構想』は所期の目的を達し得なかった。この移民事業につまずいた松原はとうとう私財の大半を失うという苦境に陥って事業から手を引き病気療養のために日本へ渡った。同氏に対する日本の空気は冷たかった。日本政府は失意の松原に一コの勲章でゴマ化したと東京の新聞は報じたものである。」
 松原植民地に移民の導入を続けていく予定だったが、松原が帰国して以降、移民事業は財団法人日本海外協会連合会に引き継がれた。さらに、五四年にヴァルガス大統領が自殺したために、うまく進まなくなった。松原も病気の療養を続けていたが、六一年十二月に和歌山でその生涯を終えた。(つづく、坂上貴信記者)

写真=日本で松原の手伝いをした梅田さん