松原植民地=56年目の追憶=連載〈6〉=陸の孤島ドウラードス=山伐りの費用を援助

ニッケイ新聞 2009年1月24日付け

 一九五三年にオランダ船ルイス号で松原植民地に入植した梅田さん。日本では役場勤めだったが、松原の「かばん持ち」をしたことから、近所の人たちにブラジルへ行くことを頼まれた。検討していた時に、松原から「三年か五年計画で行ってはどうか」と助言され決心。妻のタマさん(79)と、もう一人と構成家族を組んで松原植民地へ入植した。
 お金も少なかった梅田さんは、近所の人たちから荷物を作ってもらったという。また、自分の名義で所有している山を売って資金を作ることにしたが、そのとき松原が「将来は日本に住みたいから自分に売ってくれないか」と持ちかけ、約二百万円で買い取った。
 約四十日かけて無事サントスに着いたとき、出迎えに訪れた君塚慎大使やサンパウロ総領事館関係者たちに「松原植民地には井戸、水、家など必要なものはなんでもある」と言われ、大喜びしたという。しかし、現地に着いてみると何一つなく、何も進んでいなかった。
 入植者たちは木村実取現地監督を通じて山伐りを頼んだ。が、「松原がパラグアイ人に対して、百五十万円で山伐りを頼んだが、持ち逃げされた」と説明され、進まなかった。
 梅田さんは松原の使者として訪れた遠藤伊一郎氏ら三人から、「ブラジルへ来る前に松原に売却した山のお金二百万円を貸してくれないか」と頼まれた。そのお金は松原がブラジルに戻って来た時に、クリチーバに居る兄の礼資さんに手渡されているはずだった。
 そのお金を貸したことによって、山伐りをすることができた。後に植民地を訪れた松原から「梅田君ありがとう」と一言礼を述べ、二百アルケール分の地券を渡され、「土地はいらない」と返そうとしたが、担保に持っていけと言われてしぶしぶ受け取った。ポルトガル語が分らなかった梅田さんは、ドウラードス市内で雑貨店を営んでいる片山利宣氏に見せたら「これは仮地券だ」と笑われたという。
 「今まで誰にも言ってこなかったが、私の二百万円のおかげで、松原植民地の木を伐ることができたんだ」と説明する。
 入植場所は十月ごろにくじ引きによって決められ、文句はほとんど出なかった。途中で同地を出た人の場所には、場所の悪い人が移動して入った。
 先に男たちが住むところを作り、その後家族を連れて入植。飲料水がなかったために、二十リットルの石油缶を使って水を汲みに行ったり、ドウラードス川を渡るために、ドラム缶を組んでその上に板を乗せてカミニョンを運んだ。
 当時、〃陸の孤島〃と呼ばれたドウラードス。カミニョンで入れるような道はなく、テコテコ(セスナ)かジープ、もしくは鉄道でしか入ることはできなかったことからそう呼ばれた。
 そのような状況下でも松原植民地は発展していった。ブラジル中から注目を集めた場所だった。「明るいし、外人たちも親切で良い所だった。外人は危ないって聞いていたが、そんなことはなかった」と梅田さんは思い出しながら話した。(つづく、坂上貴信記者)