第31回県連ふるさと巡り=旧都=歴史あるリオ日系団体との交流=第6回=グランデ島=戦時中に突然、家長拘留=「世界で何が起きてるの」

ニッケイ新聞 2009年3月25日付け

 「みんな親切にしてくれるから一回行くと続けて行きたくなる。今度は終いかと思いながら、もう三回目」。そう原口ますこさん(80、熊本)は笑う。十日朝、一行はイーリャ・グランデに向かっていた。
 コリンチャンスで活躍する有名サッカー選手の別荘が立つ小さな「ロナルドの島」を右手に見て、一行を乗せた船は、高級保養地アングラ・ドス・レイスの鏡面のような内海を進む。ガイドはあの島は某歌手、こっちは政治家と説明に忙しい。三百六十五もの島があり、七割が有人だ。
 原口さんは一九六一年にパラー州トメ・アスー移住地に入り、十年をそこで過ごした。「私たちが入植した頃は全盛期で、パトロンの家は御殿のようでしたよ。でも一~二年で根腐れ病が出てきて…」。そのため、七〇年代最初に出聖した。
 波のない海面を見ながら快い風を浴び、原口さんは懐かしいアマゾン川を思いだしているようだった。
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 正午前、パッサ・テーラ地区の、交流会の会場となるポウザーダ・マリア・ボニータの真ん前の波止場に船は着いた。アングラ・ドス・レイス・クラブの波田間ヨシオ会長(50、三世)ほか八人が待っていた。
 「平日で仕事があるから、あまり集まれなかった。でもみなさんを歓迎する」と同会長が申し訳なさそうにあいさつし、長友団長が続いた。同会長の妻・ハツコさんが、自身の父親で最古参の入植者の上原ブンゾウさん(75、二世)を横に、簡単な入植史を説明した。「おじいさんは六歳でリンスから移転し、そこから家族の歴史が始まった」。三四年の入植当時、ほとんど沖縄県出身者だった。
 一部でこの島の反対側にあった刑務所に勝ち負け抗争当時に拘留された人が連れてこられたとの噂話があったので、乾杯のあと、上原さんに直接、確認すると、「ここにはブラジル人政治犯だけ。日本人はいなかった」と証言した。
 しかし、「戦争中、海岸部には敵性国人は住んではいけないことになり、私の父はドイツ人移民と一緒にニテロイに拘留された」という興味深い話をはじめた。
 四四年頃に父、上原牛助さんら家長だけが警察に連れて行かれた。その少し前、四二年には母カメさんが四十二歳で亡くなっていた。
 「なぜ父が捕まったのか、なんの説明もなかったんですよ。その時は。島にはラジオも新聞もありませんでした。世界で何が起きているのか、私たちはまったく知らなかった」。突然の拘留に、残った家族は心底驚いたという。
 「後から知りましたが、戦争だったらしかたないと思いながらも、残された私たちは、日本に戻るかどうかで大変悩みました」と苦難の日々を振り返る。
 「父は当初、お金を儲けたら沖縄に帰るつもりでした。いつもサウダーデを強くもっていたようでしたが、七三年に七十六歳で死ぬまで、結局、帰る夢は一度もかないませんでした」
 一九一八年に二十歳ぐらいで渡伯した。出身は両親とも沖縄県糸満市だ。郷里でも漁師をやっていたので、ブラジルでも、と考えていた。「父は拘留所で、ブタの餌やりをするなどして四カ月を過ごした後、無事に帰宅した」という。(つづく、深沢正雪記者)

写真=島での戦争体験を語る上原ブンゾウさん