『日伯論談』第1回=ブラジル発=宮尾進=『デカセギ』の現状に思うこと=日本の美点をブラジルに

2009年4月25日付け

 かつてパウリスタ新聞(本紙の前身)で掲載していた「土曜論壇」が「日伯論談」という形で復活し、そのトップバッターを仰せつかったのは光栄だが、与えられたテーマは「デカセギ」についてだという。
 ところが、「デカセギ」について私は部外者であるばかりでなく、批判的でもあり、担当者が期待しているであろう、「デカセギ」の困難な現況に対しての、適切な示唆などを与える立場にはない。
 私がなぜ、「デカセギ」に対して批判的になったかというと、彼らの子弟に非行少年が増え、日本でも社会問題化していることを知らされてからである。
 こうしたことから私は、二十余年もの長い年月を重ね、現在では五年十年という長期滞在者も多く、しかも三十万人をも超えるこの日系「デカセギ」は、ひどい言い方かも知れないが、何の規律も統一もない、全くの「烏合の衆」でしかなかったのか、という思いをさせられたからである。
 そう思ったのは、彼らの祖父母、父母である一世日本移民のことが、すぐに連想されたからでもあった。
 特に戦前移民の十九万人の殆どは、この日系「デカセギ」同様の、「出稼ぎ」コロノ移民であった。結果として、コロノでは初期の目的を達成できなかったところから、彼らは主としてサンパウロ州内陸部の原生林を求めて開拓し、自営の農業者として稼ぐことに戦術を変え、集団地を形成し、組織を作り、自前で学校も建て、子供の教育に努力した。 
 更に自分たちの生産物が言葉の不自由さなどのために、市場で叩かれたりすると、ブラジルにはなかった協同組合をも日本から導入し、自衛の手段を講じもした。
 ちなみに、各地に「産業組合」といわれた農協組織が最初に作られたのは、一九二〇年代後半のことであり、移民総数は驚くことに、まだ五万人にも満たない少数の頃であった。
 この自衛手段の農協組織を立ち上げたために移民はどんなに助かったか。そしてこの組織は、ついには中南米一にもなったのである。
 こうした移民同士力を合わせ、自分たちの手で学校を作り、農協も組織したりした根底にあったものは何か。
 それは取りも直さず、伝統的日本文化の特性である団結力、協調性、あるいは高度の組織力といったものであり、こうして資質を移民の個々が身につけていたためでもあった。
 こうしたことから見ると、二十年余の歴史を閲し、三十万余の数を擁しながら、自分たちの子供の教育、また現在のような状況に対処する自衛の組織や対策もこれまで講じても来なかった「デカセギ」たち日系後継世代には、移民一世世代の持って来た、前記のような日本文化のよき資質は、露ほども継承されることがなかった、ということになるであろう。
 「デカセギは移動が激しいから組織が出来ない」との話もあるが、一九五八年、移民五十年のさいに行なわれたコロニア実態調査によると、日本人移民もまた、平均五・五回の移動を繰り返していることを指摘しておきたい。
 今回の突発事態で、政府の救援策か何かで帰国する者も相当数あるだろうが、残ったものたちは、これに懲りて、今後こうした事態に対処するための自衛手段、自衛組織を講じたりするだろうか。私はそうした資質が身についていない彼らは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、台風一過すれば、もとの木阿弥に帰するものと思っている。
 それでは一体、これからどうすればよいのか。私は甚だ迂遠なことであるが、一世移民のもたらした、前述のような日本文化の良き資質を、ブラジル社会、ブラジル文化の中に、「日伯学園」といったような教育機関を通して、深く普及浸透させていく以外に方策はないと考えている。
 個人主義は決して悪いものではないが、この国に住む人に足りないのは、お互いの協調性とか団結力といったものである。
 こうした日本移民のもたらした伝統的日本文化の良き特質を、この国の中に残すことは、この国にとって、最も大きな貢献となることである。
 これからでも遅くはない。ブラジルでの二世紀を迎えた日系社会は、何よりも、そのための努力をなすべきであろうと考える。 

 宮尾進(みやお・すすむ)

 サンパウロ州アリアンサ移住地出身。戦前に訪日し、信州大学を卒業後の五三年に帰国。コチア産業組合機関誌「農業と協同」、「ブラジルの農業」編集長を務める。サンパウロ人文科学研究所元所長。日系社会関係の著書多数。78歳。