次の百年戦略のために=~日系社会とは何か~=第1部《世界史の視点から》(6)=踏みとどまった日本移民=世界史的に稀な高定着率

ニッケイ新聞 2009年6月3日付け

 渡米した外国移民の場合、大半の民族が三五~五〇%の割合で祖国に戻った。
 「一九世紀末から二〇世紀初頭に渡米した移民のうちで、最終的に母国に帰った者の割合は、ポーランド人・セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人が三五%(ないしそれ以上)、ギリシア人が四〇%、南イタリア人・マジャール人・スロヴァキア人が五〇%であったと推定される」(『近代ヨーロッパの探求(1)移民』一四頁)
 ブラジルの場合、米国よりもはるかに帰国率が高かった。奴隷の代わりの劣悪な受入れ条件がその理由の一つだが、自然環境の差異などいろいろな原因があるようだ。
 『移民八〇年史』によればブラジルへの外国移民の場合、なんと半数以上が定着しなかった。
 「一八一九年から一九三三年末までにブラジル入国の外国移民は四六二万三七八九人だが、その中から他の外国に再移住、また帰国した者の比率は五三%に達し、つまり定着した者は半分以下の四七%にしか過ぎないといわれている」(一〇三頁)。
 続いて次の数字が並べられている。「一九〇八年から一九三三年までにサンパウロ州に入った外国移民については、一九三三年末現在で国籍別の定着率については、…トルコ人五三・二二%スペイン人五一・〇五%ポルトガル人四一・九九%ドイツ人二四・四九%イタリア人一二・八二%」(同一〇三頁)
 同じ言語で、同じ文化であるポルトガル人ですら約四割しか定着せず、同じラテン文化圏であり、言葉も比較的近いはずのイタリア人に至っては、わずか八人に一人だった。定着率が低いというより、それが当時の〃常識的数字〃だったといっていいだろう。
 イタリア移民の「特徴は『出稼ぎ性』であり、そのため北米では『渡り鳥移民』と呼ばれた。その特徴はブラジルにおいても同様だった」(同一〇四頁)とある。
 そんな中で、日本人の定着率はどれぐらいだったか。なんと九三・二一%が定着した。日本人の定着率は圧倒的に高かった。欧州移民と比較すると違いが際立つ。
 しかし、日本人の場合も永住しようと思っていた訳ではなかった。戦前移民の大半は「数年の出稼ぎ」のつもりで移住し、「錦衣帰〃国〃」することが目標だった。
 渡伯費用は日本政府や州政府負担で渡航できたが、いざ渡ってみたら「帰りたくても帰れない」状況になっていた。
 結果的に「このようにブラジルに移住した日本人は世界の移民史上でも珍しく高い定着率をしたものだった」(同一〇三頁)となったのであって、本当は他の民族の移民同様、帰りたかったに違いない。
 その想いが、いや怨念ともいえる郷愁が「日本精神」に結晶したといっても過言ではない。
 香山六郎著『移民四十年史』(一九四九年)の序には、「在伯日本移民三十万人大衆」とある。それだけの規模の人数が「帰りたくても帰れない」心情に置かれていたという歴史的状況は、おそらく世界史的にみても稀なことだろう。
 欧州移民はすでに欧州内で移住を繰り返して準備し、どこで見切りをつけるかを知っていたが、日本移民はそうではなかった。百年以上前から移住を生活習慣の一部に織り込んでいた欧州移民との差は大きい。
 長年の鎖国のおかげで、日本人は「移住」行為に慣れていなかった。その結果、帰国する費用までも使い果たし、再移住するにしても、ブラジル国内で済ませたのかもしれない。
 笠戸丸が出航したのは、開国してからわずか四〇年にすぎない。当時の日本の市民レベルでは外国の生活や西洋文明についての知識が全くなく、濃厚に江戸時代の記憶が残っていた時代だ。
 つまり、外国という言語や文化が違う場所で生活することがどんな苦労を伴うかもまったく考えずに、「よその土地に移る」程度の気持ちで飛び出した人が大半だった。
 移住のなんたるかを知らずにまったく未知の文明圏に置かれて、体当たりで生活を切り開き、結果的に定着せざるを得なかった日本移民。このように、先人がブラジルで歩んだ道は、世界史的にみても大変な経験であったといえる。(つづく、深沢正雪記者)