連載=アマゾンを拓く=移住80年今昔=【エフィジェニオ・デ・サーレス編】=(上)急勾配、強酸性の〃農地〃=困難乗り越え、卵の里築く

ニッケイ新聞 2009年6月23日付け

 現在日系三十二家族が住むエフィジェニオ・デ・サーレス移住地は、百八十万都市マナウスが消費する鶏卵の約七割を供給する〃卵の里〃だ。アマゾナス州政府と契約を結んだ日本政府は、一九五八年十一月に第一陣十七家族、六一年までに五十四家族を送り込んだ。マナウスの北四十キロに位置し、現在では「コロニア・ジャポネーザ」行きのバスも運行するが、悪路とマラリアが移民らを苦しめ、急勾配で強酸性の土地は農業に不適格な土地だった。昨年十一月に入植から半世紀を迎えた同地を訪ねた。
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 「やることなすこと失敗だらけ」―。
 第一陣で入植、エフィジェニオ・デ・サーレス自治会の宮本倫克会長(65、石川)はそう入植当時を振り返る。
 「入ったのが雨季の十一月。乾季に行なう山焼きができないから、一年は仕事にならんわけ」。
 各家族に分譲された二十五ヘクタールのうち、「三ヘクタールは伐採済み。宿泊所もある」との条件だったが、全くの原始林。契約不履行どころか、アマゾンの常識すら調査していない―移民らの日本政府に対する不信はいきなり高まった。
 「入植から四、五年は土方仕事ですよ」。その間に赤痢やマラリア、森林梅毒(フェリーダ・ブラーボ)の蔓延に移民は悩まされた。
 自治会の事務局長を務める室谷捷男さん(63、石川)の腕には生々しい傷跡が残る。
 「マラリア同様、蚊が媒介するんだね。けど食料不足で体が弱っていたこともあるんでしょう。ひどい目にあったよ」
 海協連職員との軋轢も頻繁に起こった。
 ある時、井戸を掘り、各家庭に水道を引くことになった。職員は図面通り実施しようとする。
 「隣りの家まで二百五十メートル。その間の勾配がひどいから、その計画では無理なのに、『東京で決まってる』って譲らない。移住地に来たこともない人間が決めるわけだからねえ」とため息をつく宮本さんの家族に割り当てられた土地は、イガラッペ(小川)も流れ、四十米の落差があったという。
 「そもそも何故平らな土地を買わなかったのかが不思議でならない」。
 六二年に入植予定だった家族が対岸のベラ・ビスタ移住地に入植先を急遽変更するほどだった。
 海協連はアバカシー、マンジョカ、グァラナ、米などの植付けを奨励、移民らも大根、白菜などの野菜作りに奮闘した。
 入植翌年には、農業協同組合を創立、マナウスのアマゾナス劇場側の路上で野菜類を販売、地道ながらも徐々に売上を伸ばしてゆく。
 ピメンタ(胡椒)の生産も開始、最盛期にはヨーロッパや北米にも出荷したが、後に根腐れ病が蔓延、終焉を迎える。
 同移住地は、粘土性でPH五以下の強酸性の土地で農業には不適格だった。しかし、ピメンタ育成のため、土地を改良する必要性が生まれ、鶏糞を採取するために始めた養鶏が当った。
 六七年に自由貿易地域(ゾーナ・フランカ)に指定されたマナウスの発展とともに移住地も成長を続け、現在では七十万羽を飼育するまでになっている。
 「一町歩を整地して鶏舎を建てるのに一ロッテ買うお金がかかった」との室谷さんの言葉を受け、「でも―」と宮本さんが言葉を継いだ。
 「土地の悪い人の方が頑張ったもんだよ。貧乏な学生が勉強するのと一緒」と笑った。(つづく、堀江剛史記者)

写真=(上)昨年11月、入植50周年を記念し建立された慰霊碑「拓魂」。自治会の宮本倫克会長(左)と室谷捷男さん/1958年に入植した17家族。神戸移住センター前で