「アマゾンの歌」を歩く=(2)=さびれた移民の玄関口

ニッケイ新聞 2009年7月16日付け

 サンパウロ州の日本移民の功績を高く評価していたパラー州のジオニジオ・ベンテス州統領は一九二三年、アマゾン地域にも日本移民を受入れる用意があることを、就任間もない田付七太・在ブラジル日本国大使に打診した。
 同年十月、日本人移民を制限するレイス法案が提出されたこともあり、他地域への移民導入を思案していた田付大使は、強い関心を抱く。
 翌年には、すでに二十年近くブラジルに滞在、ポ語辞書の編纂や「実査三十年大アマゾニア」の著もある野田良治書記官らを現地調査に赴かせている。
 二五年、ベンテス州統領から、「無償提供する五十万町歩の植民地選定期間を一年間与える」との書面を受け取った田付大使は、これを本国に報告。
 日本政府は、調査団設立の検討を図ったが、予算がつかず、鐘淵紡績株式会社にこれを諮った。
 かねてから南伯の棉作に関心を寄せ、留学生も派遣していた武藤山治社長は早速、株主総会を開き、八万円の支出を承認。二六年、同社取締役の福原八郎を団長とする調査団を派遣する。
 州政府、すでにベレンで英雄的扱いを受けていた柔道家前田光世(コンデ・コマ)らの協力を得て、現地調査を行なった結果、アカラ河本流とアカラ・ミリン河沿岸の五十万町歩を「土地肥沃」として選定、ほかにも州内三カ所の選択する権利を得た。
 この報告書により、二八年、資本金一千万円の「南米拓植株式会社」(南拓)が設立される。 翌年一月には、南拓の現地会社となる「Companhia Niponica de Plantacao de Brasil」を設立。
 アカラ郡から百五十キロ上流にあるトメアスーの港に置かれた本部を中心に、先発隊による測量、伐採、食料販売所、病院建設などが始められている。
 日本側では、入植者が募集され、二九年七月二十四日、四十二家族百八十九人の第一陣が大阪商船「もんでびでお丸」で神戸を出港。
 独立記念日である九月七日にリオに入港、「まにら丸」に乗り換え、ベレンに到着したのが十六日。
 五日の休息後、南米拓殖会社の「アントニーナ号」でアカラ河を二百七十キロ溯上し、二十二日午前八時過ぎにトメアスーに到着している。

 河の水がきれいになっているーと教えられるまでもなく、山田はその変化に気づいていた。アマゾン本流の泥色は消えて、深い藍色の水面が清々しく朝の光を受けていた。間もなくアカラ植民地に着くはずだが、水の色はどのあたりで変わっていたのだろうか。
 スエノが二歳になる元の手をひいて、夫のそばに立っていた。

 数十年ぶりに港を訪れたという元さんは、桟橋に歩を進め、「いやあ、川の水が汚れたなあ」と驚嘆の声を上げた。
 市が観光目的に建設を進めたものの、今は打ち捨てられたコンクリート製のターミナルが殺伐とした雰囲気を与えている。
 かつての桟橋はすでにないが、「向こう側の景色―つまり船の左舷の風景は、当時と変わっていないでしょうね」

 アカラ植民地のトメアスー港の桟橋が遠くに見え始めた。現実に入植地が現れようとする今、移民たちはただ黙々と甲板に立っていた。荷物を背負い、子供の手をひいた移民たちは、南拓現地事務所の人々に迎えられて、一列に陸地に上がった。

 (堀江剛史記者)

写真=移民らが降り立ったトメアスーの港。ベレンまでの道路が開通して以来、使われていない