「アマゾンの歌」を歩く=(7)=母の急死、密林での出産

ニッケイ新聞 2009年7月25日付け

 精米所で働いていた頃、元さんは結婚する。妻となったのは、今村豊江さん(〇七年に七九歳で死去)。結婚披露宴は、一九四六年五月だった。

 「かわいそうな娘じゃないか。生まれたばかりの時にブラジルに連れてこられて、身よりもない所で、みなし児になってしまった。
 なあ、元…お前の嫁にして、みんなで大事にしてやろうじゃないか。他国で生きてゆこうというのは、並大ていのことじゃない。足弱のものがあれば、だれかが手をひいて歩いていかなければ…お互い、日本人同士なんだから…」

 山田家と同郷の今村靖一、タケ子夫妻は、四一年に相次いで黒水病で亡くなった。
 両親を亡くした豊江さんは、戦時中トメアスーの支配人だったブラジル人の家で住み込みの仕事をしていた。
 元さんによれば、トメアスーで生活必需品をまとめて購入、移住者に売る仕事もしていたスエノさんー非常に社交家であったーがまとめてきた話だという。
 二歳で連れてきた息子に嫁が来ることになった。心から喜んだであろうスエノさんは婚約が決まった直後、四十八歳の若さで急死する。心臓発作だった。
 「四十五年九月十日午前五時でした。五百メートル離れたところに住んでいた医者の菊地(文雄)先生をすぐ呼びにいったんですが…」。入植以来十八年、働き詰めの人生だった。
 新婚の二人は精米所に住み、昼夜なく働いた。
 「昔は除草剤もないし、草取りも大変でした」。二十人を雇い、四六、七年には、三十町歩で一千俵を収穫した。
 当時、稲穂の波が広がっていた場所を眺めながら、イガラッペ(小川)を渡る。
 「この水を飲料水にしていたんですが…汚れましたねえ」
 水車小屋に至る道はすでにない。薄暗い森。他と変わったように見えない一本のカジューの木を見付け、「多分ここだと思います」と木をかき分け、森の中に入っていく元さん。
 かつて知った道とはいえ、八二歳とは思えないスピードで歩を進めていく。溝に架かる、朽ちた木を渡るときも速度が落ちない。何度かぬかるみに足を取られつつも、慌てて追いかける。
 当時水車小屋があった場所は、完全に木が覆い繁っている。ただ一つ、水車の軸を支える石の台座が残っていた。
 「十年も住んでいたんですけど…何の面影もないですね。長女(里子)と次男(充)は、ここで産まれたんですよ」
 身篭っていた豊江さんが産気づいた。慌てて産婆経験のある人に頼みに行ったが、水車小屋まで来ることができず、取り上げ方を教えてもらうことになる。
 「臍の緒を切って、トマ・バーニョさせて…何とか格好つけました」と屈託なく笑う。
 夕暮れ時となった十字路までの帰り道、元さんは、スエノさんの思い出を口にした。
 「水車小屋までの行き帰り、馬車の上でよく『露営の歌』などの軍歌を歌ってくれました」
 スエノさんは前夫と死別、子供を婚家に残して義一さんと再婚した。戦争を知り、出征兵士として戦地に赴くかも知れない息子をトメアスーの地で案じていたのだろう。

 ―あの子の方じゃあ、なんとも思うとらんじゃろう。遠いブラジルに来てしもうた母じゃもん。あの子にとっては死んでしもうたも同然じゃけえー。当然のことと思いながらも、ブラジルからは反対側といわれる祖国の遠さが今さらにせつなかった。

 元さんが水車小屋で仕事に精を出している頃、トメアスーには戦争の影響が及んでいた。(堀江剛史記者)

写真=50年ぶりに訪れた密林の中にある水車小屋跡。水車の台座だけが残っていた