「アマゾンの歌」を歩く=(10)=農協理事長、市議も

ニッケイ新聞 2009年7月31日付け

 胡椒景気を迎えたトメアスーの生活は一変した。移民の多くは家を新築、それは〃ピメンタ御殿〃と呼ばれた。

 いっさい装飾を省いた長方形の総二階に、学校の寄宿舎のように同じ形の窓が等間隔に並ぶ山田の家にも、彼の質実な性格が現れていた。雨季明けの五月、開拓時代の犠牲者二百七十人の供養のため、トメアスーを訪れた浄土真宗本願寺派門主・大谷光照夫妻は、山田の新築の家に一泊した。法要の席の山田は、スエノをはじめ、トメアスーで生まれ、貧困の植民地だけで短い生涯を終わったすみれ、昭の冥福を心から祈った。

 五四年に建設したこの家に今も山田さんは住んでいる。一階にある仏壇の上には、「見照」「至誠心」と大谷氏の揮毫による額がかかる。
 「門主さんが来られたときは、二階でお説教をして頂きました。その後にも年賀状などを貰い、父は『有り難い』とよく言っていました」
 義一は五人の子持ちだった寡婦みつよさんと再婚、その後三人の子供をもうけた。元、豊江さん夫婦も六人の子供に恵まれた。「一時はこの家に十七人が住んでいたんですよ」と笑う。
 この年、義一さんは二十五年ぶりに故郷広島に錦を飾る。

 いま彼は祖国の土を踏んだが、しかしかつて夢見たように、日本に骨を埋めるためではない。親がわりの愛を注いで育ててくれた長兄・力太郎がすでに高齢に達しているので、健在のうちにブラジルでの生活を報告しておきたい―という気持ちに押されての訪日であった。

 「子供の頃、置いてきた姉を連れて、東京見物などをしたそうです。ピメンタ景気で贅沢する人もいましたが、うちで言えば、父が里帰りしたこと、増産のため土地を増やしたくらい。良かったことは、弟たちがちゃんと学校に行けたことでしょうか」

 窮乏時代に育った長男だけが小学校卒で終わったことを、彼の成績が抜群だっただけに、山田はいつまでも残念に思っていた。しかし、学歴のない元が、独学ながら日本語、ポルトガル語の読み書きを十分こなし、思慮深い性格で周囲に認められていることが、いっそう嬉しく、頼もしくもあった。

 「成績優秀というのは…角田先生が飾って書かれたんでしょう。小学校もギリギリで終ったくらいですから。組合に入る時は、履歴書に書くことがなくて困りましたよ」
 元さんは六一年、トメアスー総合協同農業組合の理事となり、七〇年から四年間、八二年にも理事長を務めた。通信技術が発達していない当時、会長、専務、秘書はベレンに勤務した。
 「日曜日から金曜日まではベレン。父からは『人のために、犠牲精神を持って仕事しろ』と言われて、一生懸命やりました。ただ、組合の仕事をやると自分の営農が疎かになるんですね」
 元さんが理事長を務めた七、八〇年代、ピメンタの盛衰は激しく、非常に厳しい時期を過ごしたという。
 市会議員も六九年に一期務めた。七人の当選者のうち最高得票。教育充実に力を入れた。
 「自分もブラジルの小学校へ行かせてもらいましたから。中学校へ行けなかった悔しい思いをしたし、務めだと思いました。ベレンから先生を呼んだり、机と椅子を百組船に乗せ、運んできたり。だけどポリチコっていうのは、嘘をつかないといけないんですよ。それが耐えられなくてね。一期で勘弁してもらいました」(堀江剛史記者)

写真=一時は17人が住んだ。現在も山田家が住む住宅前で。55年頃の撮影