アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《4》=上塚司「極楽も遠くない」=警鐘鳴らす三浦鑿

ニッケイ新聞 2009年8月27日付け

 入植が始まった一九三〇年当時、日本でアマゾンは「南米の理想郷」として宣伝されていた。
 例えば、元代議士の上塚司は人気の高い大衆雑誌『キング』(三一年六月号)に「大アマゾンの日本新植民地」と題する一文を発表、「台湾九州四国を合わせた大面積の処女地が、日本の植民地として諸君の開発を待つ」とぶち挙げている。
 「『アマゾンを支配するものは世界を支配する』と迄いはれてゐるあの大アマゾン流域中に、無限の富を蔵してゐる新天地が、我同胞のために新植民地として開かれたいふことは、実に天来の福音(後略)」(国会図書館サイト「ブラジル移民の百年」より)と実に勇ましい。
 「比類なき有利な契約」とまで書いた上で、「極楽もさう遠くない」との節では、探険家アメリゴ・ペスプッチの言葉を引用し、「世界に若し極楽といふ所がありとすればもう此所からは、さのみ遠い所ではあるまい」とまで言っている。
 さらに「アマゾンといふと、赤道直下だ、悪疫の流行地だ。猛獣毒蛇は人の近づくことを許さない所だ……こんなやうに多くの人々は想像して来た。併し、これは決してアマゾンの真の姿ではない」とまで記す。
 「魅惑的なアマゾンの夜」との節では、「アマゾンの気候風土について一言しておかう。今までアマゾンの気候は、随分誤解されてゐた」とし、「要するにアマゾンは、香港、シンガポールに比べれば比較にならぬ程凉しく、台湾や東京の夏よりも凌ぎよいといふことになる」との説明まで。
 上塚ら当時アマゾン送りだしを計画した日本側要人は、おそらく真剣にそう思っていたに違いない。移民は、その確信に満ちた魅惑の言葉を信じて人生を賭けた。代議士センセイが間違ったことを言うはずないと信じ、夢を抱いてやってきた。
 第一回移民が入植したのは、上塚論文発表の一年九カ月前。トメアスーではすでにその絵物語は破綻の兆しを見せ始めていたが、後発組に知るすべはなかった。
 この論調の背景には、第一次大戦中の日本の米騒動、米国の日本移民受け入れ禁止などのために日本政府からは強い送り出し圧力が働いていたことに加え、次のブラジル内の事情もあった。
 田付七太駐ブラジル大使の着年早々の二三年にレイス法案(黄色人種入国制限案)が提出され、ミゲル・コウト博士一派(ブラジル医学士院)による同案賛成決議文発表などで苦汁を嘗めており、当時移住先の中心だったサンパウロ州に限定せず、本国の強い送り出し要請を受け、広く入植地を選定する必要に迫られていた。
 そんなおり親日家で知られるパラー州のディオニジオ・ベンテス知事が日本人による開拓を熱望していることは、まさに「渡りに船」であった。
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 もちろんアマゾン入植に警鐘を鳴らした新聞人もいた。日伯新聞の三浦鑿だ。
 福原八郎を団長とするアマゾニア調査団が現地を訪れたのが二六年。翌二七年、三浦はさっそく「国威発揚的幻想に囚われた無謀なる計画なり」と食ってかかり、徹底的に反対の論陣をはった。
 同年九月、社主の三浦自ら単身、ゴヤス、マラニョンなどを縦断してトカンチンス河からアマゾン本流までを、当時は冒険ともいえる陸路踏査を実施し、現地を歩いた。
 二八年三月に帰聖し、通信員をしていた大阪朝日新聞に十二回にわたって連載「大アマゾン記」を送り、実体験に基づいた「進出尚早」という厳しい意見を訴えた。
 だが同二八年八月に南拓は発足、十月には先発隊がベレンに到着、翌二九年四月から実際に植民地造成に着手した。
 『トメアスー開拓二十五周年記念写真帳』によれば、南拓を主導した鐘紡の武藤山治社長は先発隊の壮行会の席上、「五年以内にこの仕事を成功させて見せます」などと意気軒昂な福原ら一行を前に、「少なくとも、自分は二十年先を期待している」と釘を刺し、先発隊の奥正助隊長は「あまりに悠長に感じた」(十五頁)と述懐している。
 これは三浦の記事を読んで賛否両論の厳しい現実を受け止めていた武藤と、希望的観測を抱いていた先発隊との温度差なのだろう。(続く、深沢正雪記者)

写真=「無謀なる計画なり」との論陣を張った三浦鑿