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座談会=日系文学の心情語る=細川周平教授を囲んで=コロニア文芸6氏が参加

ニッケイ新聞 2009年8月28日付け

 国際日本文化研究センター教授、細川周平さん(54、大阪府出身)を囲んだ日系文学の座談会が二十一日午後、サンパウロ人文科学研究所と文協日系文芸委員会の共催で行われ、救済会会議室には入りきれないほどの約三十人が集まり熱心に質疑応答が行われた。
 それぞれがコロニア文芸界を代表する一人である安良田済、栢野桂山、浜照夫、大浦文雄、田口ルネ、柿嶋貞子の六氏が座談会に加わり、宮尾進元所長が司会した。
 日系文学調査のために来伯した細川さんは現在、史料館で戦前からの邦字紙や文芸雑誌を閲覧して推移を調べるとともに、執筆者自身にも聞き取りなどを行っている。
 一九二五年頃までのコロニア文学は作者不明が多く、「書きたい人が書いている」という〃筆のすさび〃状態だが、二〇年代後半から句会などの文芸グループが相次いで立ち上がり、機関紙が創刊されるなどの流れがあると細川さんが概略を説明、座談会参加者それぞれに発言を求めた。
 安良田さんは「活字信仰かもしれないが、自分の作品が新聞にのることでとても幸福な気持ちになれる。三〇年代に植民地の青年会で手書きの会報を作り、自信がつくと新聞に投稿するようになった。新聞と謄写版の会報は、いわば車輪の両輪のように文芸活動を刺激してきた」とのべた。
 宮尾さんは「移民なら誰しも一つは小説になるような体験がある。ただし、小説を書くのは大変なので短歌や俳句で想いを表現する人が増え、ある意味、小説が広まるさまたげになったともいえる。戦後のある時期、作句をする人の比率なら、日本よりも高かったのでは」との仮説をのべ、意見を求めた。
 二世の柿嶋さんは「作者が高齢化しており、戦前とか戦後とか言っていられない状況。ブラジルから川柳をなくさないように、みんなで支えないと先細り」と訴えた。
 八十歳まで地方在住だった栢野さんは「十一歳で入植し、ブラジル人農場で働き日本語を忘れていた。十八歳で日本人の植民地で青年会に入り、日本人として日本語が必要だと思い直し、言葉を覚えるために俳句をやった。ほかに日本語を覚える方法はなかった」と振り返り、いわば「日本語を覚えたブラジル人」と自らを位置付けた。
 それに対し大浦さんは「私は四歳でブラジルに来て、仕事はブラジル人と一緒だが、心の中は日本人だと思っている。日本の人からは『おまえは外国人』といわれるかもしれないが」と別の見方を示した。
 客席にいた中田みちよさんも「準二世の気持ちは日本で共感を呼ぶのは難しいのではと思うことがある。もし、ポ語でそれを表現できるのなら、むしろイタリア系の準二世とか、言葉より境遇の似ている人の方が分かってもらえるのでは」などと語った。
 主催者の田中洋典人文研所長は「こんなに集まってもらえるとは思わなかった」と予想外の感心の高さに嬉しい悲鳴をあげた。細川さんは九月十四日まで約一カ月間滞在して調査を行う。

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