アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《8》=「最低の運命の時期」=桟橋で玉音放送聞く

ニッケイ新聞 2009年9月3日付け

 〃イバラの道〃は移民の宿命なのか。
 第一回アマゾン移民の一人、ベレン近郊アナニンデウア郡在住の大橋敏男さん(92、静岡県)は、自分史『南十字星は誠の光を』の中で、ドイツ潜水艦事件の直後のことをこう記す。
 「私が書いた手紙の中に、『ブラジルの国旗には秩序と進歩とありますが、今度の出来事はブラジルの旗を汚すものだ』と書いてあったので、不都合なりとされて、私と父と弟の三人はトメアスー送りとなりましたが、その前に二十日ばかりベレン市の牢屋に入れられました」(十五頁)
 検閲は厳しく、ちょっとしたことで枢軸国移民は警察に引っぱられた。大橋さんは「私の最低の運命の時期でありました」(同)と振り返る。アマゾン移民全体にとっても受難の時代だった。
 「南拓会社の社員の人達やベレン空港近辺の野菜作りの人達も、半年近く以上も以前から三十人位でしたが入牢していたのがトメアスー送りとなりました」(同)。大橋さんは十二歳でアカラ植民地に入植し、三年後にはサンタイザベルに移転し、同地の組合創立に尽力した人物だ。
 沢田哲さんは「(トメアスーの)橋爪会館にはパリンチンスの人が入れられ、灼熱の太陽のもと道路補修工事などの重労働に主に動員されました。でも路銀はくれたので、それで生活はできたようです。ベレン近郊の人は、精米所の倉庫や個人の家などあちこちに別れて収容され、ガレージや製材所で働かされていた」と振り返る。
 収容された側も大変だが、受け入れた側も半端ではなかった。
 トメアスー文協の初代会長だった大沼春雄氏も『同七十年史』の中で、「男も女も子供も下着一枚で逃げてきた状態ですから、私たちも行李の底をはたいて下着だのを皆に分配し、各自が個別に人数の割り当てを引き受けました。私たちも貧乏していて生死の境にありましたが、日本人同志ですから、自分たちだけのことを考えてはおられなかったのです」(三十六頁)と回顧している。
 四二年一月に枢軸国移民への取締令を公布して以来、家宅捜索が相次ぐなど厳格を極めた待遇は、意外なことに捕虜時代になって一変した。
 沢田さんは「強制収容されてからは、ダンスパーティやってもよし、昔と同じようになった」と意外なことを明らかにした。これは今までまったく知られていない事実だった。九月に刊行予定の『トメアスー組合公認六十年史』を編纂をした下小薗昭仁さんや吉丸禎保さんも、「そんな話は今まで聞いたことなかった」と口をそろえて証言の貴重さを強調する。
 沢田さんは、「戦争中でも、みんな集まったら軍歌ばっかり歌っていた。『ここは~お国の何百里』ってね(笑)。私らの時は軍歌しかないんだから。流行歌なんてないんだから」と生き生きと当時の様子を再現した。戦時中の隠された一幕のようだ。
 強制収容以来、アカラ産業組合の活動も停止させられ、CETA(州政府植民地管理局内のトメアスー管理部署)に販売、購買が管理される体制になっていたので、そこを通じてしか販売できず、法外な手数料を取られた。沢田さんは「ピメンタなんかは、言いがかり付けられて半額しかもらえなかったこともあった」と証言する。
 運命の四五年八月――。沢田さんは「玉音放送はアカラ郡の桟橋の拡声器で聞きましたよ。ブラジル人から、今何を放送したのかと聞かれたよ。本当に偶然だった。やっぱ負けたんだなと感じた」という。「当時、ネイ・ブラジルという無電技師がおって、いつも戦争のニュースを流してくれたから、みんな状況は理解していた」。のちにトメアスーの初代郡長になった人望のあるブラジル人だった。
 サンパウロ州で起きたような終戦情報をめぐる真偽論争は、同氏の人望ゆえか、ここでは起きなかった。強制収容は終わり、それぞれがもとの場所にもどったが、トメアスーにとっての戦争はまだ終わっていなかった。(続く、深沢正雪記者)

写真=大橋敏男さん(『南十字星は誠の光を』より)