アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《9》=ズブの素人が造船?! =改革に燃える青年たち

ニッケイ新聞 2009年9月4日付け

 終戦翌年の四六年三月、二十歳そこそこの若者たちが決起し、産組という身内に改革を求め、返す刀で州政府にも戦時体制を終わらせるべく果敢に交渉を挑み、体当たりで勝ち取っていった。
 植民地の青壮年の有志十七人によって結成されたアカラ農民同志会(会長・関勝四郎、委員長・戸田子郎)だ。
 「アカラ産業組合もCETAに掌握されたままで植民地の生産物の売値も不当に低く、一方、購買品は不当に高くなるなどの搾取がひどく、戦時下に前進を阻まれ足踏み状態を続け、植民地にととってはCETAの存在が大きな障害であった」(『トメアスー七十年史』三十六頁)。
 同志会創立会員の一人、沢田哲さんも「組合の改革が大事だった」と振り返る。まず組合に対し、五項目の改革希望案を提出した。その一つは「組合新加入許可の件」だ。当時組合加入には入会金一コントが必要だった。「青年にはなかなか用意できる金額ではなかった。今の組合のやり方ではやっていけない、一般人も組合に入れるように改革しようと高橋くんたちが訴えました」。
 若者たちは、さらに「生産物の販売権を自由にしてくれ」と州政府とぶつかった。「生産物販売、日用品購買の権利を産組へ返還させる運動も、日伯両語に堪能な高橋勝正、沢田哲氏等が何度も交渉を重ねた結果、これに成功している」(『アマゾン六十年史』)。
 戦後すぐ、同志会が結成される前段階から州政府との交渉は準備され、高橋さんが先頭にたって進めた。沢田さんは「彼のポルトゲースは大したものだった。ブラジル人が負けるぐらい、彼らもびっくりしていた」と証言する。
 高橋さんは、元々サンパウロ州に移住した準二世だという。あれだけ周到かつ大胆に州政府と交渉をしたが、何の因果か、組合が正式に政府公認となる寸前、三十七~八歳の若さで惜しくも亡くなった。
 二年がかりの交渉の末、州政府から直接販売の認可をもぎ取る見通しがつくと、次は運搬手段の確保が問題になった。植民地の動脈ともいえるベレンへの運搬もCETAの管理下にあり、「自分たちの生産物を運ぶには、自分たちの船が必要だ」と考えた。戦前は南拓の船アントニーナ号があったが戦争中に政府に没収されていた。
 そこで、船大工が一人もいない「全くのズブの素人の集まり」(三十七頁)である同同志会が、造船を決意する。
 高橋氏が設計、トメアスーで家の建て方を学んだ大工の永野敬士氏が棟梁となり、まったくの手作りで七カ月の時間と九十コントもの大金をかけて、十八トンの木造船ウニベルサル号を作った。エンジンは、南拓事務所の裏に転がっていた中古のフォードのエンジンを取付けた。
 当時のトメアスー組合は現状維持派と、若者を中心とする改革派のまっぷたつに分かれていたが、大枚の建造資金が寄せられたことは、青年達に期待する声が多かったことを意味する。
 期待を集めた進水式は四六年十一月十八日。沢田さんは、「たまたま私は南拓で働いていて自動車の運転ができたので、ウニベルサル号の責任者になった」と謙遜する。当時法律で日本人が船を操縦することは禁止されていたので、実際に舵を取ったのはブラジル人だった。
 進水式の時は大変な騒ぎだった。
 「みんながね、ありゃ、ひっくりかえるって大騒ぎしていたそうですよ」と楽しそうに振り返る。「あの船は進まんとかいう人がおったんですが、私は最初から乗り込みましたよ」。素人が作った船で大河アマゾンに挑むことは、すなわち命がけの冒険だった。
 アマゾン移住における〃歴史的な瞬間〃と言っていいだろう。(続く、深沢正雪記者)

写真=奥側にバテロンを付けたウニベルサル号