アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《11》=マカコ事件であわや追放=サンパウロ市巻き込む強い影響力

ニッケイ新聞 2009年9月9日付け

 終戦直後、勝ち負け紛争が起きて日本移民に対する評価が落ち、四六年八月にはあやうく日本人移住禁止が新憲法に盛り込まれる寸前までいった。その結果、移住再開は当面、北伯(辻移民)とマットグロッソ州(松原移民)に限定された。
 そのような戦後移住再開に関し、当時の邦字紙の論調は基本的に冷淡だった。戦前の三浦鑿の流れを汲む雰囲気がまだまだ続いていたのかも知れない。北伯で苦労して南伯に流れてきた転住者の苦労話を聞かされるサンパウロ州在住者ならではの反応ともいえる。
 トメアスー組合のサンパウロ市出張販売所も五一年八月に開設され、木村正四郎氏を出張所長に起用し、国内市場を席巻するなどサンパウロ市の日系社会にも影響を与えた。後にパウリスタ新聞副社長を務めた中野光雄氏(79、東京)によれば、五〇年代にトメアスー組合は豊富な資金力によってパ社の大株主になっていた。
 同五一年には「マカコ事件」もおきた。『中央公論』六月号に掲載された「現地座談会・在伯邦人社会と移民問題」の中で、司会者が「三代目には退化して猿になってしまう」と発言したことを、勝ち組一派がブラジル司法当局に通報したため、国家への侮辱として国外追放を視野に入れた容疑で厳重な取り調べが行われた事件だ。
 アンドウ・ゼンパチの司会のもと半田知雄、河合武夫、木村義臣、増田秀一、鈴木悌一、斉藤広志、下元健吉、植木隆治、山本喜誉司など当時の認識派の錚々たる顔ぶれの座談会だった。
 最終的に容疑は却下され翌年には決着を見たが、日系社会有力者が容疑者となったことで話題を呼んだ。「当時ブラジル政府には、日本移民導入を北部のアマゾニア地域に限って許し、その開発にあたらせようとの方針があり、これに呼応する日本サイドの積極的な態度を安易すぎるとする警告的な発言が、この座談会の主要なテーマのひとつであった」(『山本喜誉司評伝』人文研、百八十頁)と位置づける。
 だが、例え「警告的な発言」だと解釈しても、誤解を招きやすい表現であることは間違いなく、コロニアの大半を勝ち組が占めている状態に強い危機感を持っていた認識派ゆえに、当時は過度に相手を貶めがちな物言いが多かったことが指摘されており、その分反発をかった結果とみられる。
 また戦後移民第一陣を伝えるパウリスタ新聞五三年一月八日付け記事では、前年末二十八日に神戸港を後にした第一回移民団に関し、次のように揶揄している。
 「出発数日前、百三十人の永住帰国組がブラジルに見切りをつけて引き揚げたが、これらの中には昭和五、六年頃のアマゾン移住者があり、その一人が『入植以来二回の干ばつに襲われ、四十度を超える酷暑とマラリア蚊に悩まされ、とても人間が住める処ではない』と語ったことから、張り切っていた五十四人は相当な衝撃を受けたという話も伝わっている。近着毎日新聞の報じる移民出発風景は次のようにハナヤカなものであった」
 アマゾン入植二十五周年の五四年八月には評論家の大宅壮一と中野好夫が来伯し、アマゾン視察の途中でトメアスーを訪れ、「旧移民の下士官根性」について発言をし、反発を呼んだ。
 パ紙五五年新年号では蛭田徳弥社長自ら司会をした座談会が掲載され、山田義一さんは「不愉快だったね。下士官根性なんか持っとる人は、トメアスーにはいないですヨ」と発言し、佐藤忠雄さんも「大宅氏も、アマゾン呆けをした。十四、五年アマゾンに住んでから物を申して欲しかったヨ」と鼻息が荒い。
 パ紙の河野寛さんは何度もトメアスーまで足を運んで特集を組み、緊密な関係を作っていたが、蛭田社長と相前後して亡くなくなった後、関係が自然消滅したようだ。
 このように北伯日系社会の存在はけっして孤立したものではなく、常にサンパウロ市を巻き込む強力な影響力をもっていた。(続く、深沢正雪記者)

写真=当時の新聞