日伯論談=第18回=日本発=リリアン・テルミ・ハタノ=子どもたちの可能性のために、多様性の尊重を

2009年9月12日付け

 在日ブラジル人の子どもと一口に言っても、その置かれた状況は実に多様である。
 たとえば、学齢期の途中で来日した子もいれば、もっと幼い頃に来日した子や日本で生まれ育った子どももいる。ブラジル人経営の託児所やブラジル学校にずっと通っていた子もいれば、日本の保育園や小学校しか知らない子どももいる。日本の公立学校に通ったが、様々な適応の問題、いじめの問題などで不登校になり、ブラジル学校に途中編入した子どもやそのまま不就学になった子ども、十五歳未満で働きはじめた子どもたちもいる。ブラジル学校に通っていたが、経済的理由で日本の学校に急遽通うことになった子どももいる。
 子どもたちが置かれた状況がこれほど多様であれば、解決すべき問題も多様である。そして、その解決方法もけっして単純ではありえない。
 このような現実をふまえたとき、子どもの教育について重要なのは、選択肢の多様性である。
 現状で選択肢として重要なのが日本の公立学校とブラジル学校だが、日本の学校に通わせる道を選ぶと、子どもが日本語のモノリンガル(一言語話者)に育ってしまう可能性が高い。これは多くのブラジル人家族がすでに経験してきたことであり、日本語が話せない多くのブラジル人保護者にとって、その代償は高すぎる。
 国籍にかかわりなく子どもの最大の利益を保障する「子ども権利条約」の精神をふまえて、日本の公教育が母語(継承語)教育を重要なものだと位置づけ、バイリンガル(二言語話者)の子どもを否定しない、さらに理想を言えば、子どもの多様性を認めようとする方向転換がなされない限り、外国にルーツを持つ子どもの保護者にとって、日本の学校を選ぶことは、残酷な選択になりかねないのである。
 ここで忘れてはならないのは、マイノリティ(少数派)にとって自分のルーツを大切にすることは、自信と自尊心を持つために必要な、生存に直接結びつくものだということである。そして、マジョリティ(大多数派)にはそれを受入れる寛容さが不可欠であろう。
 しかし、言語以外の点でも、日本の学校ではマイノリティはマジョリティへの同化を強いられる。たとえば、名前。今春出版した博士論文で詳しく紹介したが、日本の学校に通う子どもの中には、ブラジル名、つまり非日本名で呼ばれることを避ける子どもが少なくない。日本名だけを使い続けた結果、ついには本名が忘れられてしまった例さえある。
 名前や言語が日本化すれば問題が解決するわけでもない。つい三週間前のことだが、日本生まれの小学低学年の子が、突然、「十六歳になったら日本人になる」と言い出した。「ブラジルへ帰れと言われなくなる」からだと言う。アジア系の外見で日本生まれ、日本名を持って関西地域の方言を流暢に話し、ブラジルに行ったことはなくポルトガル語はほんの少ししか理解できない。そんな子でさえ「ブラジルへ帰れ」と言われてしまう。
 日本の学校、そして日本人の意識が変わらない限り、問題は深刻なまま、存在し続けるだろう。
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 では、ブラジル学校の状況はどうか。
 ブラジル学校では日本語学習の時間は圧倒的に少なく、多くの学校は「いずれブラジルへ帰国する」子どものための教育を行っている。その結果、子どもたちは日本で生活しながら、ポルトガル語のモノリンガルに育ってしまう。予定が狂って日本にとどまることになれば、極めて大きなハンディである。日本語教育を含む本格的なバイリンガル教育の取り組みが望まれる。
 学費も厳しい。日本では外国人学校も、各種学校として認可されれば、自治体からの財政支援を受ける制度を利用できる。しかし、その認可基準が厳しく、財政基盤が脆弱なほとんどのブラジル学校は私塾扱いのままで学費は高く、施設の充実度も日本の学校に大きく劣る。
 にもかかわらず、不安定な時給単位の仕事を続けている多くの保護者が、ブラジル学校を選択してきた。日本ブラジル学校協議会の最新情報によると、リーマンショック以降十六校が閉鎖に追い込まれたが、現在でも日本全国に八十一校のブラジル学校が存在している。
 これほど多くのブラジル学校がなぜ生まれたのか。ポルトガル語の教育を重要視する保護者の存在。多くの日本人有識者やブラジル人有識者が指摘してきたのとは違って、多くの保護者が子どもの教育に熱心であること。そしてさらに、日本の教育制度の特殊性も背景にあるようだ。
 と言うのは、ブラジル政府は〇七年、外務省内に在外ブラジル人コミュニティー担当部署を設立し、世界各国のブラジル人コミュニティーが政府と直接交渉する窓口ができた。これを受けて〇八年七月にリオで開催された第一回の会議には、在外ブラジル人コミュニティー関係者約五百人が参加。私も出席し、今年開催予定の第二回会議の準備委員として、世界各地のブラジル人コミュニティー関係者と情報交換を続けているのだが、日本のようにブラジル学校が各地で設立されている地域は他にない。子どもたちは現地校に吸収されており、不就学の問題が深刻になっている例もない。
 言語の問題、受入れ体制の問題、イジメなど、日本の公立学校にブラジル人の子どもが通いつづけるのを妨げる問題の深刻さを、痛感せずにいられない。
 教育の目的は、子どもの可能性を開花させること、そして、子どもがこの社会で生きていくうえで必要な知識や能力を身につけさせることにある。だからこそ、教育は子どもにとって極めて重要な意味を持ち、大人は子どもの教育について極めて重要な責任を負う。
 日本の公立学校とブラジル学校。それぞれの特長を活かしながら問題点を改善していくために、このグローバル化した二十一世紀の世界においてどういう政策が必要なのか。それこそが今、緊急の課題なのである。

リリアン・テルミ・ハタノ

 リオデジャネイロ連邦大学文学部英米文学科・日本語科卒業後1993年国費留学生として訪日。大阪大学大学院言語文化研究科博士課程修了。甲南女子大学多文化コミュニケーション学科准教授。大学で指導に当たる傍ら1999年に滋賀県で在日外国籍児童の居場所づくり、日本語学習、教科学習等の手伝いを目的とする支援グループ『子どもくらぶ「たんぽポ」』の立ち上げに関わり、主に母語(継承語)としてのポルトガル語指導を担当している。著書『マイノリティの名前はどのように扱われているのか』(ひつじ書房、2009年)