小原明子が語る=舞踏とユババレエ=知られざる共通点=(上)=過激すぎた舞台

ニッケイ新聞 2009年9月30日付け

 半世紀前に共にモダンバレエを志し、地球の反対側に分かれてもお互いの世界を追求しつづけた同志のために踊る――今月から横浜で行われる「大野一雄フェスティバル2009」に参加するために、弓場農場の小原明子さん(74、東京)が18日に訪日した。一見、まったく別物に見えるユババレエと舞踏の、知られざる共通点を探ってみた。
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 小原さんといえば弓場農場を特徴付けるユババレエの指導者として有名だが、渡伯前には暗黒舞踏(あんこくぶとう)の創立者として世界的に有名な土方巽(たつみ、秋田県、1928―86年)とも深い繋がりをもち、大野一雄とも3回ほど共演している。その縁で今回の訪日招待となった。
 土方巽は、白塗り前衛舞踏とのイメージが強いが元々は、小原さんが15歳からモダンバレエを始めた安藤ユニークバレエ団の一員だった。「戦争中に育って、とにかく踊りたくてたまりませんでした。踊るのが大好きで、たまたまそこを紹介されて、通うのに近いからいいやって気軽に決めたんです」。
 劇団四季の舞台の振り付けを、演出の浅利慶太から指名されて引き受けたこともあったという。脚本は寺山修司で題名は『血は立ったまま眠っている』。マンボを踊る場面があり、役者にその振り付けをした。
 二人は背丈や踊りの相性の良さからバレエ団から指名されて、たまたまパートナーを組み、57年8月には「チノとテテ」を共作・共演している。その当時、小原さんはまだ22歳、土方巽は29歳だった。5年間ほど一緒に舞台やテレビの仕事などをした。
 「あの頃、本当に貧乏でした。土方さんから『テレビの仕事はいいんだけど、そこまで行く電車賃貸して』って言われたこともありましたよ」と思い出し笑いをする。「貸しましたよ。だってパートナーだから、相手がいないと仕事にならないでしょ」。
 さらに「彼は毎日、コッペパンにコロッケ挟んでお醤油かけて食べてたっていってました。夏になると布団を質に入れ、冬になると出してくるという生活だったんですよ」との秘話も明かす。
 ある意味、戦後日本の文化的〃梁山泊〃ともいえる状況が当時、50年代の東京の若者にはあった。学生運動の嵐が吹き荒れる直前であり、三島由紀夫、寺山修司、唐十郎ら怒れる若者達が理想に燃え、やるかたないエネルギーをたぎらせていた時代だった。
 「今思えば、あの頃すでに土方さんの踊りには、のちの舞踏につながるインスピレーションがあった。余りに刺激が強すぎると、上演されない演目まであったんですよ」と振り返る。
 それは舞台の上で鶏の首を絞め、血を滴らせるという演出で、「モダンバレエの場にはふさわしくない」と判断されたのだという。この出来事がきっかけの一つとなり、「独立したらどうだ」との勧めを受け、舞踏の世界に踏み出した。
 一方、小原さんはテレビの仕事で貯めた資金を使って、「年に1回か2回、自分のやりたい踊りを見せる公演をして赤字になる。大金をつぎ込んでも限られた観客。このままで良いのか」という悩みを抱えていた。
 すでに土方はバレエ団から独立していた。「私にも舞踏をやらないかって誘いを受けた。でも、ちょっと私の方向とは違うかなと思っていた」。
 かといって、同じ事を続けるのも…。「日本でバレエを辞めるわけにはいかない。踊りと縁をきるのには死ぬしかない」と思い詰めた時期もあったと述懐する。(続く、深沢正雪記者)

写真=モダンバレエを踊る小原明子