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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《25》=「天が味方した」=熱帯果実が再生の鍵

ニッケイ新聞 2009年9月30日付け

 94年のレアルプランでインフレは収まったが経済自体が冷えこみ、異常気候による減産などでトメアスー組合は資金繰りが悪化し、7月に再び赤字決算に陥った。96年5月の臨時総会で改革案が決議されたが、農業を取り巻く状況はさらに厳しさを増していた。
 新たな危機に直面したことで、97年1月の理事会で一気に役員は二世を主軸にした体制に変わった。伊藤ジョージ理事長、坂口フランシスコ渡専務理事、斉木仁イバン生産担当理事らだ。
 ここで天が味方した。
 この農村電化施設を州電力公社に有償譲渡して得た株券が、「お宝に化けた」(坂口理事長)のだ。97年、州の方針で同公社を民営化することになり、株券を競売で売却すると高値が付き、330万ドルという莫大な臨時収入を得たのだ。
 この資金を元手にして新ジュース工場が建設され、貴重な移住地活性化の自主財源となった。

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 本部から車で5分ほどのジュース工場へ向かう。やはり現場を見ないとピンとこない。保冷倉庫建設に続き、99年には現在の新工場を建設し、生産能力は一気に6千トン/年になり、飛躍的に採算が良くなった。本格稼働を開始したのは00年7月だ。
 なぜ、ジュース工場に力を入れるのかといえば、森林農業とセットになっているからだ。森林農業とジュース工場は、補完関係を持っている。畑で生産される熱帯果実を買い取ってジュースに加工して商品化するから多品種少量生産の小農でも採算が取れる。
 事実、この頃から訪日就労者がどんどん帰ってきて、デカセギ資金を農業に投資している。今は森林農業のおかげで生活ができるからだ。農業がデカセギ帰伯者の受け皿として、ようやく機能するようになった。
 工場責任者、斉木さん(50、二世、パリンチンス生まれ)に連れられて工場にはいると、なんともいえない甘い匂いが立ちこめている。「これだけの設備の工場はパラー州ではほかにありません」と胸を張る。
 アサイ、アセロラ、マラクジャ、カランボーラ、タペレバなど14種類のジュースの一部は日本や米国にも輸出され、飲まれている。
 2月に完成したばかりの20トンの果汁を一度に冷凍する能力のある倉庫に入ると、息がつまり、メガネが曇って見えなくなった。外気は30度余りあったので、倉庫の中の零下22度と比べると温度差はなんと50度にもなる。
 99年から00年にかけての新工場建設には100万ドル以上かかったが、全て自己資金でまかなった。「無借金経営ですよ」と斉木さんは〃お宝〃を有効に活用した実績を誇る。
 特にアサイに関しては他に先駆けて96年から工場生産を始めた。搾汁機械を開発して特許を持っている。ジュース生産の半分を占める時期もあった主産物で、今でも約4割を占める。
 「工場の残廃物は発酵させて、森林農業の畑に入れる肥料にする」。徹底した環境への配慮だ。
 トメアスーでは今世紀に入って、日系団体の統廃合が本格化した。海谷文協会長は「経費節減と会員の負担を減らすために合併の動きが強まった」と説明する。
 03年8月には農村振興協会(ASFATA)と文化協会が統合して、現在のトメアスー文化農業振興協会となった。08年には農村電化組合と農業組合が合併し、現在の文協と農協という2大組織に集約された。
 トメアスー組合が1949年に連邦政府から公認されてから、今年で60年。前身である野菜組合創立から計算すれば、実に78年にもなる。
 事実上、アマゾン移住80周年の大半を占める最古の組織だ。パラー州内にはかつてサンタイザベル、カスタニャール、モンテ・アレグレにもあったが、現存する唯一の日系組合だ。全伯で見ても、文句なしに最古の組合の一つといえる。(続く、深沢正雪記者)

写真=手作業でカカオの皮をむいてジュースを作る(上)/斉木仁イバンさん

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