小原明子が語る=舞踏とユババレエ=知られざる共通点=(下)=生活が芸術そのもの

ニッケイ新聞 2009年10月2日付け

 61年末に、夫となった小原久雄さんと共にまっすぐに弓場農場に入った。明子さんはまだ26歳。同農場を紹介した人は「1年は滞在してほしい」と条件を出した。「場所を変えてみたら、なにか別のモノが見えるかも知れない」と明子さんは気分転換のつもりで引き受けた。
 「当時、弓場に16歳ぐらいの年頃の娘がいて、『教えてくれ』っていうんですよ。別にバレエ団を作ろうなんて気はさらさらなかったんですけど。二つ返事でOKを出しました。その時に、やるんなら3年は辞めないでって条件を付けたんです。そしたら48年ですから」と笑う。
 気分転換のつもりで来たのに、思わぬ展開が開けた。人生そのものが当時の前衛運動の一つハプニングのようだった。ただし、舞台は新宿駅頭でなくブラジルだった。
 弓場農場に入って以来、小原さんは予想外のことに驚きっぱなしになる。「弓場では『やったことないからできない』って言われたことないんです。すごい世界に入っちゃったなと思いましたよ」と思い返す。
 「例えば『緞帳(どんちょう)がほしい』『スポットライトがあるといい』って言っても、しばらく考えて作ってきて『これでいいか』って」。このような態度は普通の生活の中にはなかった。正確にいえば、芸術家の世界にはあった。
 「物作りの原点が弓場にあった。芸術の世界は、なにもないところから創造していくこと。まさにここでの生活がアートそのものだと気付いたんです。なんというか、生き方、モノの考え方が驚異でした。それでのめり込んでしまって」
 舞踏は日本独特の精神文化、生活風習を深く反映して生まれ、世界的に有名になった。
 小原さんには舞踏が有名になった理由が分かる。「みんな食うや食わずでやった人ばかり。だから、どれ一つ生半可な作品はない。必死ですから」。普通は「食えないから」とある程度の時間がたったら辞めていく。残った人はそれを超えて突き詰めた人だ。
 「舞踏とユババレエは、一見するとまったく別物に見えますが、実は根の部分で共通したモノがある」と分析する。「舞踏が突き詰めたあり方と開拓者精神は似ている。食うや食わずで、生き残りをかけて必死に何かを作り出していく。そこに通じるモノがある」
 弓場では忙しい農作業の合間をぬって週3回、練習を欠かさず続けている。最近、その舞台を見ながらふと気付いた。「これだけ真剣に取り組んでいる姿ってなんだろうなって。しかもプロではないのに観客を感動させる何かがある」。
 プロではないが、ただの素人のステージとも違う。「生活に対する姿勢がステージににじみ出ている。プロの舞台を見ても、そんなにじみ出てくるようなもののある作品はなかなかない」。
 踊りの技術だけなら、上手い人はいくらでもいる。ユバが人を感動させる理由を「一つの思想表現だから」と説明する。
 「弓場は将来も変わらぬ根本精神を残していかなければいけない。それが本物であれば残っていく。その表現の一つがバレエ。だから精神が残れば、すなわちバレエも残る。形は変わっても」
 昨年の100周年では8月に日本外務大臣賞、10月にブラジル文化省から第14回マッシャード・デ・アシース記念文化功労賞を受賞し、奇しくも日伯を代表する存在として両国政府から認められた。
 明子さんは言う。「いまだに弓場ってなんだか分からないんですよね。今でも考えています」。(終り、深沢正雪記者)
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 土方巽と大野慶人が最初の舞踏作品『禁色(きんじき)』を上演して今年で50年。ブラジルでは故楠野隆夫が舞踏作品を独自に創作して広めた。昨年5月、それを記念してSESCパウリスタで大野一雄の写真展が行われ、息子の大野慶人が来伯公演した。その時に小原さんは共演し、100周年が縁で半世紀前の歴史が温められた。
 当時を振り返り、小原さんは11日に小作品『風の記憶』を踊り、土方巽研究所所長らと座談会をする予定。
 【大野一雄フェスティバル】~18日、会場および問合わせ先=BankART1929(神奈川県横浜市中区海岸通り3―9、ohnofes@bankart1929.com)

写真=ユババレエ