アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《34》=「日本人が作るカカオ」=世界から注目浴びる

ニッケイ新聞 2009年10月16日付け

 胡椒独特の匂いが強烈に鼻をつく。「いわばこれが金庫代わりですね」。胡椒倉庫を案内したトメアスー組合の歴史に詳しい角田修司さん(67、宮城県)は、天井まで積み重なった60キロの胡椒袋を見上げながら言う。
 現在600トンの在庫があり、最大2千トンまで貯蔵可能だ。60年代の胡椒景気の時に建てられた見事な木造建築だ。普段はここに積んでおいて、現金が必要になると組合に売ってもらって調達するのだという。
 角田さんは67年に北伯雇用青年移住の第1期として、あるぜんちな丸で渡伯し、トメアスー組合農機部に就職した。以来主要団体の事務局長などを歴任している。
 かつて同組合の経営は胡椒一本槍だったが、現在は果実が総売上の6割を占め、胡椒などの乾物は4割に過ぎず、多角化されている。胡椒は値段の良い時まで置いておく余裕が生まれ、このように山積みになっている。
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 現地事情に詳しい北島義弘さん(70、佐賀県、アマゾン・トラベル・サービス社長)は、「現在の組合理事長らが経営を引き受けた頃は赤字経営で潰れる寸前だった。ですから私は、彼らのことを〝7人のサムライ〟って呼んでいるんです。80年の歴史のうちで、トメアスーではいつも若者が立ちあがって改革してきた歴史があります」と見ている。
 一度目は終戦直後、20歳前後の若者が集まったアカラ農民同志会が組合に改革希望案を叩き付ける一方、戦争中に失った販売権を州政府に直接交渉して獲得し、運ぶための船まで自前で建造した。同志会の若手を組合が受け入れる形で発展的に解散し、その後の胡椒黄金期につながった。
 90年代に再び危機に瀕した組合は、97年に伊藤ジョージさんが理事長なったのを初め主要な理事にも二世が就任し、以来、強力に立て直しを進めてきた。これが2回目の改革だという。
 「かつてトメアスーの指導者、平賀練吉さんがよく言っていました、移住事業は100年かかるって。最初に南拓が目指した作物がカカオ。今それが再び注目を浴びている。世界広しといえど、日本人がカカオを作っているのはトメアスーだけでしょう。品質は別格です。武藤山治のプランが80年経って花咲いたといって良いんじゃないでしょうか」。
 角田さんも「南拓の見る目はすごかった。ご覧なさい。いま最初のカカオに戻っているでしょ」と強調する。同地のスペシャル・カカオは最高品質だと世界の市場関係者から注目されている。
 この40年間に15回もアマゾンを取材した環境問題の第一人者でノンフィクション作家の山根一眞さんは、9月25日に講演をした中で、今回の80周年慶祝団に明治製菓の代表者がおり、トメアスーの森林農業の畑を見て、その場でカカオを購入すると発表したことを明らかにした。
 「世界でカカオの需要が増えているが、アフリカの産地は長年の栽培で土地が疲弊している。ここでは日本人が栽培しており品質は最高。しかもチョコが売れるほど森が増えていく。だからどんどん買いますと言っていました。80年祭のお祝いの中で一番良いニュースでした」と講演した。
 無念の死を遂げた武藤山治、万感の涙を飲んだ福原八郎がこの報に接したらどう思うだろうか。
 現役閣僚としては初、若林正俊農水大臣が昨年5月にトメアスーを訪れ森林農業を視察した。昨年の洞爺湖サミットでは世界中から集まったマスコミ関係者にそのアサイが提供された。ブラジル政府がアフリカ諸国に森林農業を普及するのを、日本政府が手伝う計画も政府間レベルで検討されているとの話も聞く。
 海谷会長は「トメアスーがあるから80周年がある」と繰り返す。アマゾン移住はここから始まったとの自負だ。そして、未来への筋道も示している。「私たち一世に次の90周年はないかもしれない。今回の式典はその分、将来に向けた発展の起爆剤という意味で大きな節目でした」。(続く、深沢正雪記者)

写真=北島義弘さん