アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《37・最終回》=開拓の延長線上で=自然と人間の関係問う

ニッケイ新聞 2009年10月21日付け

 「移民の話は暗いのが多すぎ。実際はケロってしてるでしょ」。普段は飄々(ひょうひょう)と語る汎アマゾニア日伯協会の堤剛太事務局長だが、この一言には真剣な表情をうかべた。「80周年のシンボルは森林農業です。アマゾンに外国人移民が入って地域発展に寄与した間違いのない事実がここにある。これが一番の功績です」。
 同協会の生田勇治会長も「80周年ではアマゾンでの日本移民の貢献をアピールした。ジュート、ピメンタ、野菜など地域発展に尽くしている」と強調する。「移住者はみな夢を持ってアマゾンに来ました。私は暗い話は嫌いです。アマゾンの厳しさに耐え、突き抜ける中で、生命の持つ本来の力を発揮し、新しい道を探してきたのではないでしょうか。むしろ豊かな中では思いつかないことを実行し、明るい道を切り開いてきた」。
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 日本語で「農業」というと文化とは異なる印象を受ける場合が多い。だがポ語で文化・文明を示す単語「クルトゥーラ」(Cultura)の第一義は、実は「栽培、耕作」だ。もちろん農業全般を示す「アグリクルトゥーラ(Agricultura)」もこれを語源とする。
 文明の初期には食べるものが無くなれば移動する採取生活をしていた放牧民が、農耕によって食糧備蓄に成功することで定住が可能になって都市が生まれ、文明が花開いたという壮大な人類の歴史が、この一語に凝縮されている。
 その意味で、自然との共同作業である「農業」には、人類の知恵が詰まっており、日本移民が営々とやってきた開拓という行為は、まさに大自然の中に文明を持ち込むことだ。
 つまり、開拓は単なる自然破壊ではない。その延長線上に、新しい知恵が芽を出し、世界に知られはじめている。
 アマゾンという極限の環境は、同じ国内とはいえ、モノカルチャーを受け入れるサンパウロ州などのそれとは全く違っている。今連載の中で紹介してきたように「禍福はあざなえる縄の如し」よろしく、日本から持ち込んだ文化や考え方が裏目に出るという経験をいやというほど繰り返してきた。
 数々の欧米系の入植事業が失敗し続ける中、日本移民が踏みとどまることが出来たのは、開拓への想いの深さと共に、坂口さんのような自然への深い憧憬を持っていたからかもしれない。
 北伯移民がこの80年間に挑戦してきているのは「開拓=自然破壊」「植樹=環境保護」という単純なものではない。山根一眞氏が指摘する通り、人類と自然がいかに共存共栄していけるのかという究極の知恵を求めた試行錯誤ではないか。
 自然に学ぶ日本人のクルトゥーラがアマゾンに適応して生まれた森林農業は、北伯移民独自の〃日系文化〃といえる。
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 坂口さんは、東京農大時代に農業拓殖学科の初代学科長の杉野忠夫氏から、「君、開拓という仕事は面白いよ。男の命50年の間に、ゼロ世紀(原始)から努力次第で20世紀(現在)までの2千年の歴史を再現できるよ」といわれた。
 「その通り、たっぷり体験したよ。一人で来たが、家族も増えた。今は、孫を入れて29人になっているよ」(『農大アマゾン50周年誌』93頁)と坂口さんは06年に振り返っている。
 80年前、前人未踏の原始林を切り拓くところから始まったトメアスーには、今や電気や水道、舗装道路がある。約5万人の町になり、近代文明が持ち込まれた。
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 67年6月、翌年の移民60年を記念して来伯された皇太子殿下と美智子妃殿下(現天皇皇后両陛下)は、パカエンブ―蹴球場で8万人による歓迎大会に出席された。翌68年の歌会始で入植40周年を迎えようとする北伯を、こう詠まれた。《皇太子殿下御歌》この水の流るる先はアマゾン河口手をひたしみるにほのひややけし《皇太子妃殿下御歌》赤色土(テラロシャ)つゝける果ての愛(かな)しもよアマゾンは流れ同胞(はらから)の棲む
 遠く日本から同胞によって持ち込まれ、テラ・ロッシャで芽を吹いたこのクルトゥーラは、時代ごとに花の姿を変えて極彩色のアマゾン絵巻に織り込まれ、地域発展という果実をつけ続けていくに違いない。(終わり、深沢正雪記者)

写真=森林農業の畑