人文研=コロニア今昔物語=安良田済さん=「コロニア文学界における鈴木南樹、古野菊生、武本由夫の存在」=連載《下》=悔し涙にくれた武本

ニッケイ新聞 2009年11月24日付け

 「コロニア文学」は散文が中心で、韻文のない文芸誌を作りたい人が多くいた。しかし、韻文の分野から会員を集めないと、運営はできなかった。とにかく100人近くいた小説家は体裁が悪いと言ったが、現状からは仕方がなかった。
 会議には常に500人以上が出席し、日本の新聞にも取り上げられ、「このような内容の濃いものは日本でもない」と褒めてくれたという。
 会員が増えたら散文が中心になるという期待もあり、やがて「コロニア文学」とは別会計で散文詩「コロニア詩歌」を作り会員は200から250人に達した。
 その頃、武本は工事中の文協で掘ってあった穴に落ちてしまい足を骨折、6カ月の安静が必要となり、「コロニア文学」の編集を辞任、後任は持ち回りにしようとなった。急遽、醍醐麻沙夫が第32号を編集したが、当時800人近くいた会員のうち、半数しか会費を払っていないことに気付き、財政はひっ迫していた。
 武本は松竹に掛け合って試写会をし、弓場バレエ団を招いたり、有名な画家の作品を年賀状にして、800社近くあった商社に販売したりして急場を凌いだ。
 武本は1週間に一度会っていた安良田さんにはよく会計の愚痴をこぼしていたという。ある商社の社長には「君らの趣味には付き合わない」と言われ、「移民の文化を高めようとするため」と説得するも、「道楽だ」と言われ続けた。武本は煮え繰りかえるような屈辱を感じていたようだ。
 結局資金繰りがつかず「コロニア文学」は廃刊。武本は眠れないほど悔しかったという。数カ月後「コロニア詩歌」も法的な理由で廃刊。しかし武本は「コロニア詩歌」の会員200人に問うて、散文・韻文を合わせた雑誌を作りたいと会員を継続してくれるよう手紙を出し、結局は250人の会員で「コロニア詩文学」が発足した。
 武本は第10号まで編集。その後、胃がんに倒れた。家族は病名を告げなかったが、本人は分かっていたという。亡くなる3カ月前はよく会話し、安良田さんは武本に「私に詩文学を任せてください」と頼むと、「君が引き受けてくれるなら俺も安心だ」と言い譲ってくれたという。
 その後は安良田さんが10年間編集を務め、今は武本の息子が跡を継ぎ通算92号まで発行。安良田さんは「100号まであと少し。武本が生きていたらな」と考えるという。(編集部注=現在は「日系文学」。「コロニア文学」から通巻では今年43年目)。
 「コロニアから文学の灯を消すな。作者に発表の場を」というのが武本の心情だったようだ。安良田さんは、「このような雑誌は海外では他に例がなく、大いに誇ってよいと思う。これも武本の魂が受け継がれているから」と語った。
 ただ、武本はいろいろと文章を書いているが、著書はない。「歌集にするほどでもないからね」と出さない理由を答えていたようだが、安良田さんは「歌集にするほど数がない」というのが本音ではないか、と語った。
 アルメイロの広場に歌碑を建てたときに、少し預金ができ、その資金で「武本由夫論文集」を刊行した。それが唯一の著書らしく、安良田さんは「それで我々も武本に敬意を表せたと思う」と述べた。
 後方で安良田さんの講演を真剣な表情で聞いていた田中慎二さんは「古野さんは近寄りがたい雰囲気があったし、詳しい話は知らなかった」と延べ、「このような話をする人はいない。参考になり良かった」と感想を述べた。   (終わり)