アマゾンを拓く=移住80年今昔=【モンテアレグレ編】=第1回=アマゾン最古の移住地=戦前移民はほぼ残らず=南拓耕地は35年に廃止

ニッケイ新聞 2009年11月26日付け

 アマゾンの二大都市、ベレンとマナウスのほぼ中間にある町、サンタレン。そこから下流に約130キロの地点に、モンテアレグレがある。アマゾン日系移住地としてはアカラ植民地(現トメアスー)と並ぶ歴史を持つが、主な入植が行われたのは戦後となる。一時期は126家族、810人にも達したが、受け入れ態勢の不備、生産物供給上の困難、マラリアなど風土病の蔓延など様々な理由から、多くが脱耕。約6万人が住む同地には現在、日系15家族、1世は26人のみとなっている(09年5月現在)。55年から住む高谷和夫さん(62、長崎)の案内で現地を歩いた。

 サンタレンから船で約7時間。夕方に出た船は、真っ暗闇の中を進んでいく。広い暗いアマゾン川に映る月の姿は、あまりにも小さい。
 この先に人は住んでいるのだろうか―。そんな不安にも駆られるほどの闇。支流を入ると光の集合体が現れ、安堵感に包まれた。
 100年来ともいわれる大水で港が冠水しているため、横付けされた船伝いに地面に降りると、高谷さんが迎えに来てくれていた。
 「遠いところまでようこそ」。よく聞くこの言葉がこれほどしっくり来たことはない。
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 1925年、パラー州政府の土地無償提供(コンセッション)を受けた日本政府は、鐘淵紡績株式会社にはかった。取締役の福原八郎を団長とした調査隊が現地に赴き、60万町歩をアカラ郡(現トメアスー)と40万町歩をモンテアレグレに選定する。
 第1回移民が1929年に入植したトメアスーはカカオ生産が目的だったが、その翌年に事業が始まったモンテアレグレでは、綿花栽培が主な作物だった。
 福原団長とともに調査にあたった五反田貴己は、帰国後の29年、独身青年の海外雄飛を目的とした「大阪YMCA海外協会」を設立した。
 31年、五反田を団長とした同協会主催のアマゾン開拓青年団47人がモンテアレグレに入植するが、すぐに四散する。
 元々、一団はベレン郊外に入植の予定だったが、「独身青年ばかりが町の近くに入っては、何かと問題を起こすに違いない」と危惧したベレン領事の判断で、入植先を変更させられたことに対する不満がその一因でもあったという。
 消費される都市まで遠距離であることや、労働力の乏しさから、南拓の綿作事業も衰退していく。副団長だった平賀練吉や数人の団員が残り、タバコや麻の栽培を行ったが、南拓は不振が続く事業全体の縮小に伴い、35年にモンテアレグレを閉鎖した。40万町歩は、ブラジル政府の連邦移住地へ編入された。
 団員だった上野浩爾氏は、当時の様子を自分史のなかで書いている。―町の住民がおよそ250戸位河沿いの一部に広がり、パン屋が2軒、靴屋が1軒、宿屋と薬局が1軒ずつあった。郵便局と電信局が同居し河底電線でベレン、マナウスに通信していた。町の中心部から少し坂を上がった所にわき水の出る場所がありそこに発電所が置かれており大きな蒸気機関が英国製の発電機を回転させていた(ママ)―
 平賀氏が農業技師としてトメアスーに移った39年以降も、モンテアレグレを離れることなく、戦後移住者を世話した上野氏は、昨年12月に94歳で亡くなっている。
 わずか5年間の営農だったが、事業地があったムラタ(市街地から北に約30キロ)まで開設した道路は、戦後移民が入植した移住地への主要道路となり、事業所は郡役所として使用されることになる。(つづく、堀江剛史記者)

写真=モンテアレグレからアマゾン川をのぞむ