アマゾンを拓く=移住80年今昔=【モンテアレグレ編】=第2回=大久保喜代子さん=「貧乏のどん底だった」=日本には一度も帰らず

ニッケイ新聞 2009年11月27日付け

 モンテアレグレの市街地はいわゆる上町(シダーデ・アルタ)と下町(シダーデ・バイシャ)に分かれている。高谷さんの運転する車でホテルに向かい、とりあえず旅装を解く。
 上町にある教会のある広場であいさつ代わりに軽くビールを飲むことに。風が心地よく吹き抜け、眼下にはアマゾン川が流れている。風光明媚。そんな言葉が頭に浮かぶ。さっきまで船のなかで、不安に思っていたのが嘘のようだ。
 翌朝。滅茶苦茶に暑い。シャワーを浴び、高谷さんの迎えを待っている間に、また汗が噴出す。もう一度シャワーを浴びようか悩んでいるうちに、体格のいい高谷さんが汗だくで現れた。
 「じゃあ、まず大久保のおばあちゃんのところに行きましょう」。
 ほどなくして車は、小さなスーパーマーケットの前に止まる。オーナーの大久保哲男さん(52)に訪問の趣旨を告げると、すぐ裏にある家に案内してくれた。
     ■
 「日常の生活に困るほどじゃなかったけど、こんな苦しい生活がずっと続くんじゃあ…」
 1958年、大久保貴代子さん(82)は、夫亀寿さんと高知県吾川郡に暮らしていた。長女八重美さん(当時6)、次女陽さん(4)、長男哲男さん(2)に恵まれ、幸せな日々を過ごしていたが、その先に希望は見えなかった。
 そんな時、55年にブラジルに渡り、サンタレンの南にあったベルテーラゴム園で雇用農として働いていた義兄の春一さんから、便りが届く。
 「語学校もあり、ゴム採りの仕事にバスで通っている。とてもいいところだ。お金が沢山できる」。手紙には、そう書いてあった。
 「もはや戦後ではない」と経済白書が謳ったのは56年。だが田舎の一般庶民の暮らしは苦しかった。「日本にいても将来はない」。夫妻は移住を決めた。
 58年、春一さんの呼び寄せで、家族5人と亀寿さんの母、しげ伊さんはあるぜんちな丸に乗り込んだ。
 「それが来てみたら―高知と同じことじゃわ」。そう喜代子さんは苦笑いする。
 モンテアレグレの市街地から、58キロ北の移住地ドイス・ガーリョスに入植。ランプでの開拓生活が続いた。
 同移住地は、55年にベルテーラ、フォードランジアのゴム園に契約農として入ったものの、一方的に解雇された日本移民55家族358人―そのなかに春一さんもいた―が再入植したことから始まった。
 手紙に書かれていたベルテーラの雇用農の生活とはあまりにも違った。
 「持ってきた着物も全部売りました。母(しげ伊さん)は、『高知より楽』と言っていたけど…貧乏のどん底でした。苦労したこと、辛かったことは忘れてしまいましたよ」。喜代子さんはそう言ったきり、口をつぐんだ。
 「だから、出ていく人は多かったですよ」と哲男さんが引取った。
 「2週間に1回トラックが来るけど、雨季になるとダメでしょう。野菜作っても運べない。サンタレンに行く船も当時週に2回でしたから。もっとも行くこともありませんでしたが」
 5年ほどで一家は移住地を出た。亀寿さんが57年に設立されたモンテアレグレ農業協同組合の運転手をして糊口を凌いだ。
 喜代子さんは、58年の来伯以来、一度も日本には帰っていない。
 帰りたいとは思いませんか―という記者の問いに、「来るときに別れを告げてきているから。墓参りはしたいけど、ここでお参りしても同じと思わないと…」と嗚咽を漏らした。
 現在の楽しみはNHKを観ること。「相撲を観てたら、力が入って肩が痛くなりますよ」。そう穏やかな笑顔を見せた。(つづく、堀江剛史記者)

写真=「NHKを観るのが楽しみ」という大久保喜代子さん。長男の哲男さんはモンテアレグレでスーペルメルカドを経営する