ホーム | 日系社会ニュース | 赤間学院=財団改組50周年祝う=卒業生総数は7千人以上=永続化めざし全財産寄付=古賀理事長「高い志受け継ぐ」

赤間学院=財団改組50周年祝う=卒業生総数は7千人以上=永続化めざし全財産寄付=古賀理事長「高い志受け継ぐ」

ニッケイ新聞 2009年12月8日付け

 最古の日系校の一つで、創立76年、7千人以上が社会に旅立っていった赤間学院が、財団法人(古賀アデマール理事長)に改組して50周年を記念する祝賀式が6日午後、サンパウロ市内の同学院講堂で教職員や関係者ら300人を集めて行われた。裁縫学校だった旧体制化での卒業生が5千人、現在の公認小中高校ピオネイロ校になって2千人が知識だけでなく、社会で活躍するにふさわしい倫理観を育て、人格形成して旅立っていった。創立者赤間みちへさんの実妹、鈴木ともへさん(93、宮城県)は「本当に嬉しい。感無量です」としみじみ語っていた。

 最初に同財団の評議員会のパウロ・ギリェルメ・アマラウ・デ・トレド会長から「自分が子供の頃、この学校が人生にどんな影響を及ぼすか考えたこともなかった。知識の伝授だけでなく、社会建設に役立つ市民になるための人格形成の場として、これからも続いていくだろう」とあいさつした。卒業生の一人で、裁判官をしている。
 古賀理事長は「全財産をこの財団に寄付した創立者の行為は、教育のためとはいえ『言うは易く行うは難し』。その高い志をもって運営されてきた精神を受け継いでいきたい」とのべた。
 創立者家族を代表して赤間晃平アントニオ元理事長は日伯両語で同校略史を説明した。創立50年史によれば改組した理由は、「全財産を投じて財団法人に組織を切り替えることは、学校のより良き発展と意味するもので、要するに私個人の手を離れたところで、組織の中での有力なメンバーによって引き継がれ、理想の教育と経営面を充実させ、さらに学校の永久存続を主眼としたものであります」と書かれていると紹介。
 1931年に渡伯した赤間重次・みちへ夫妻は、33年には裁縫教授所を創立。日本語教育を含めて拡充し、サンパウロ女学院などに名称変更しながら、日伯両語を解する日系女性を社会に送り出してきた。卒業生の多くは銀行などの会社勤めはもちろん総領事館、日本語教師、有能な家庭の主婦として日本文化継承の担い手となってコロニアを支えてきた。
 晃平氏は「私は07年に理事長を辞した。創立者の意志に従って、個人の手を離れて学校が永久存続する意図に沿ったものと考えている。さらなる発展を願ってやみません」と締めくくった。
 続いて晃平氏、赤間馬場エウザ氏、ベラ・ルシア・デ・フェリセ小中校部責任者、会計責任者の堤照子さんに顕彰プラッカと花束が贈呈され、ジョアナ・アサヌマ理事から教職員に対する感謝の言葉があった。
 最後に大部一秋総領事は「百年の歴史の中で、赤間家の教育への貢献の大きさに感動している」とあいさつし、教職員による合唱隊が日本語の女学院歌と「ふるさと」を斉唱、最後のケーキ・カットが行われた。

■戦争中にも日本語教育=「赤間先生、立派な方」

 会場には赤間みちへさんの実妹、鈴木ともへさんの元気な姿もあった。戦前1936年から裁縫教師として同校に勤務し始め、つい10年ほど前に手術をするまで53年間も奉職した。「今日は感無量。教え子5千人です。教師をやってきてよかった」と微笑んだ。
 その隣に座っていた内田みねさん(89、福島県)も元裁縫教師。「戦争中は視学官が年に1~2回検査にきた。連絡が入るとすぐに日本語の教科書とか隠した。でも一回、生徒が日本語の製図帳を隠し忘れて見つかり、問題になって何日間か閉鎖させられたこともあった。裁縫を傘にして、日本語の授業を戦争中も続けた。赤間先生は厳しい方だったが、いざという時にはしっかり締める、立派な人だった」と懐かしんだ。

image_print