グランデ島の今=エメラルドの海と鳥居の歴史=連載(下)=百周年で日本祭り開始

ニッケイ新聞 2010年1月27日付け

 仲真次(なかまし)テルコさんの実家シネ家の人々も、牛助の工場で働いていた。後にテルコさんは、そこで出会った牛助の故息子ヒロシさんと結婚。「工場で働く人皆がすでに家族のようだった」と懐かしむ。
 しかし、同漁が奮わなくなり、テルコさん家族も67年にサンパウロ州へと渡ることに。「島を出るのは辛かったね。陸ではフェイラでパステルを売って子供6人を育てた」。現在、孫家族と共にサンパウロ市に在住するテルコさん、毎年この時期には親戚を訪ね同地を訪れている。
 同地の人の会話はほとんどポ語、テルコさんも「両親共に一世だがポ語を勉強していて、家庭内の会話もほとんどポ語だった」と話す。
 牛助も地元の人に「ジョアン」というあだ名で親しまれていたと聞く、日本移民の少なかった同地では戦前早くからポ語会話が中心だった。
 ちなみに、同海岸最古の鰯工場「ナカマシ・フィーリョス」の閉鎖後つくられたポウザーダ・ド・プレットの商標は、経営者仲真次キヨシさん(50、三世、牛助の孫)のあだ名「プレット」から来ている。
 海岸西側にポウザーダ・カーザ・ノーヴァを構えるのは、波田間フミコさん(旧姓比嘉、84、二世)。比嘉家族も牛助に呼び寄せられ移住、1937年それはフミ子さんが11歳の時だった。
 その当時は、親戚50人が大家族のように暮らしていたそうで、「一週間で60キロの米を平らげていたからびっくりでしょ」と笑う。
 夫ジツギさんを早くに亡くし、鰯工場「イルマンス・ウニードス」の閉鎖後、87年自らポウザーダを始めた。日系の観光客を喜ばそうと刺身やおにぎり、味噌汁のほか饅頭、いり茶を用意する。
 そのポウザーダから見える隣に広がる広場は、毎年7月にアングラ・ドス・レイス日系クラブが開催する「イーリャ・グランデ日本文化祭り」の会場だ。
 クラブは1978年創立、会員の多くは島に住んでいる。一昨年の日本移民百周年を記念して、同祭が始められ、今年で3回目の開催となる。アングラ・ドス・レイス市観光局も第1回から後援するなど力を注ぐ。
 同祭実行委員長でもあるキヨシさんが、「毎年、島中から約1500人が訪れる。ここには舞台、あっちにはバハッカが並ぶ」と指差しながら説明する。沖縄太鼓やカラオケのショーが行なわれ、砂浜に多くの人が溢れるという。
 昨年の同祭に海岸際に多くの鳥居が作られ、そのうち2つが現在も残されている。船着き場のそれと、もう一つある。
 フミコさんの甥で同クラブ会長の波田間義男さんが、近隣のパッサテーハ海岸に案内してくれた。バナナウ海岸から船で約20分のところだ。
 その道中マタリス海岸に、廃業した工場が残っているのが見えた。「60~80年代に一番だった鰯工場『カモメ』だ」と義男会長が説明する。弊紙前身の一つ、パウリスタ新聞の故蛭田徳弥社長が元所有していた工場だ。
 パッサテーハ海岸には、85年まで上原家の鰯工場「ボン・ゴスト」があり、89年に現在あるポウザーダ・マリア・ボニータに建て替えられた。
 3月には、同クラブが主催する釣り大会が開催される場所で、毎年多くのリオ日系団体が訪れる。07年には在リオ総領事館の池田敏雄首席領事も参加したそうだ。
 途中、いくつかの海岸を通過したが、ひどい土砂崩れがあったのは、バナナウ海岸のほんの一部だと痛感した。しかし、ブラジルメディアは島全土が大変な状態になっているかのように報道し、まったく被害のない海岸まで観光客のキャンセルが相次ぐ異常事態になってしまった。
 キヨシさんは、「7月の日本祭りまでには、例年通りの観光客に戻したい」と今後の回復に強い期待を寄せていた。(終わり、長村裕佳子記者)

写真=キヨシさんの妻ノリコさん、キヨシさん、義男会長、フミコさんの長男ヨシトクさん、フミコさん/賑わった昨年の日本祭りの様子