二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第9回=日本語と親子の文化的絆

ニッケイ新聞 2010年2月25日付け

 この外国語教育制限は、移民およびその子孫のブラジルへの同化を、できるだけ促進させる目的で行われたものであるが、この法令が行われてから十九年来の結果を見ると、それは決して、いい意味での同化促進とはなっておらす、ただいたずらに、一世と二世との文化的関連をたちきることになり、精神的な理解によって結ばれなければならぬ両者を分離させるという悪い結果をもたらすようになったことは、イカンにたえない。
 われわれニッポン移民は、今日では、そのほとんどすべてのものが、ブラジルに骨を埋める覚悟でここでの生活を楽しんでいるのだし、その子孫がブラジル人として成長していくことに幸福と満足を感じているのである。それゆえ、われわれおよび子孫が、できるだけ、ブラジルに同化して、善良にして、好まれる移民となるよう努力したい気持はじゅうぶんもっているのである。
 しかし、ここで生れた子どもは、法律上ブラジル人となって、国籍の上では、その親とはなれてしまうが、親と子との関係はたち切れない。そして、日常の生活における親子の現実の関係を密接につなぐものは、法律上の登記書類だけでもないし、生物学上の血のつながりだけでもない。
 それは親子であるという意識から生れる愛情なのである。そして、お互いの愛情がこまやかであるほど、親子の関係は美しいものとなり、幸福な家庭生活がいとなまれるものであることは、いうまでもないことである。
 親子の愛情を深めるためには、親と子が、同じ文化で結ばれるということが根本的に必要なのである。
 なんとなれば、日常の家庭生活では、人々は互いにビミョウな感情の作用をうけやすいものであるから、お互いの意志や気持がよく通じあうということが、家庭の平和と幸福をたもつ上に何よりも大切なので、そのためには、親子が完全に理解しあえるコトバが必要なのである。
 こういう点から見ると、14歳まで、ニッポン語教育を行うことができないということは、いろいろな点で、親子の意思および感情を通じさせるコトバを、子どもが完全に習得することを非常にさまたげている。
 もちろん、二世は、生れてから、家庭で自然に親のコトバを覚えるが、文明人のコトバは、学校で特別に教えられることによって習得するものの方が多いので、家で自然に覚えるコトバは、日常生活に役だつだけの、ごく限られた単純な話しコトバにすぎない。
 それゆえ、これだけでは、複雑した生活をしている文明人は、お互いの意思を完全に通じ合うことはできない。いわゆるアナルファベート(文盲)といわれるもののコトバは、文明人のコトバとして、いかに不完全であるかは、みんなよく知っていることである。ニッポン語のよみかきが全然できない二世は、ニッポン文化に関してはアナルファベートであるといえるだろう。しかも14歳までニッポン語を学校で教えてはいけないという法令は、子どもに、ニッポン語を話すことにすらも、劣等感意識をいだかせ、善良なブラジル人であるためには、ニッポン語を話さない方がいいのだというような気持をおこさせるのである。
 親子の間が、こんな状態になった時、その親が、子どもの教育を立派にしていくことは、とうていできない。グルーポでならうことは、主として知識であるが、家庭での教育は、精神的な面がなされるので、グルーポと家庭との教育は、完全に並行して行われるべきものである。(つづく)