二世とニッポン語問題=コロニアの良識にうったえる=アンドウ・ゼンパチ=第14回=移民1世の苦悩

ニッケイ新聞 2010年3月5日付け

 言語は民族文化を伝承するための根本的なもので、親が子どもに、自分の文化をつたえようとする本能をみたすために、かくべからざるものである。親と子の精神的なつながりは、じつに、両者の文化が相通じることによって認められるので、もし、子どものもつ文化が、親のそれとひどくはなれ、コトバも通じなければ、物の考え方も、その他も通じあうものがないとしたら、人間としてのろわれた運命だといっていい。
 二世の問題が論じられる時、すぐ、切りふだのように出されるのが「二世はブラジル人である」という文句である。しかし、二世はブラジル人であると共にニッポン人の子でもあるのだが、「二世はブラジル人である」ということが「二世はニッポン人の子である」ということより、いちだん上におかれて考えられておりはしないだろうか。これは、一世のニッポン主義者が「二世にはニッポン人の血が流れているのだ」ということを誇張するのと同じように、ゆきすぎた、一方的な考え方である。
 「二世はブラジル人である」ということと「二世はニッポン人の子である」ということは、切りはなすことのできないもので、このことが、二世という特殊な立場にある人間をつくっているのである。このことについては、前に「二世の人間像」という一文で詳述したから、くりかえさないが、同じニッポン人の子孫でも、三世という段階になれば、二世である親は、ブラジル人なのだから「ニッポン人の子である」という一面はもう消えてしまうのである。
 移民というものは、その移住地の文化が、母国文化とひどくちがっているほど、その同化は、ひじょうに困難で、二つの文化の差異を感じることによって、精神はいつも緊張しており、日常生活は、精神面においては、その緊張とのたえない苦闘である。そのため、移民の心理は、特殊なものとなるので精神的な苦脳が高まると、はげしい懐郷病におかされるようになる。移民に精神病者が多く、自殺、バガブンド、ヤケ酒、バクチなどの悲惨事や悪徳も、過度の精神的な緊張からのがれるために行われることが多いのである。
 このような心理状態にある移民に、さらにその同化を強制するようなことが行われるとすれば、精神の緊張は、ますます苦しいものとなるだろう。だから、わが子である二世が、ブラジル人であるからといって、文化的に親とはなれる距離が大きくなればなるほど、親の移民としての悩みはいっそう深刻なものとなっていく。このような同化のさせかたが、賢明なやりかたかどうかは、深く考える余地もないだろう。
 移民の幸福は、経済的にも文化的にも、移民を入れた国の繁栄ともにあるべきで、移民を文化的に精神的にカタワにするような同化政策はけっして、その国にとっても好ましいものではない。
 それゆえ、ブラジル政府が移民の子どもの同化を促進するためにとる外国語教育の方法も、移民の特殊な心理をよく考えてきめられることが望ましい。一世がその子どもに、自分のコトバを教えたいという気もちを尊重して、もつと自由にさせた上で、あせらずに同化を促がすという方法であって欲しい。