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ブラジルと日本のはざまで=帰伯デカセギの苦悩と決意=連載《2》=入国制限で再訪日断念=家族と過ごしたクリスマス

ニッケイ新聞 2010年4月8日付け

 現在サンパウロ市ジャルジン・マラバに両親と6人で住んでいるKさん(35、三世)一家は、昨年7月、妻(35)、娘(9)、息子(3)の家族4人で帰国支援金を受給して帰国した。
 帰国前、Kさんは岐阜県可児市の車の部品工場で朝から晩まで働き、残業が多い時期は1カ月38万円の給与があった。だが、不況の波で任される仕事も激減、解雇直前の収入は20万円まで下がっていたという。幼い息子2人を養い、「アパートに10万払っていたから、家族の生活はぎりぎり。このままでは続かないと分かっていた」と振り返る。
 Kさんが勤めていたのは1千人もの外国人労働者が働く大規模な工場だったが、一昨年の12月から毎月80人ずつ解雇され、昨年3月に300人が同時に解雇通告を受けた。
 9年前に日本へ渡り、そこで出会った日系人の妻と結婚。日本で生活の基盤を築いてきた。「経済危機の前は、日本でずっと暮らすと思っていた。ブラジルにもう一度戻ってくることは考えてもいなかった」と口調は重い。結婚後、ブラジルへ一時帰国したのも1回きりだった。
 解雇後、すぐにハローワークや派遣会社に駆け込んだが、アルバイトさえ見つからない。車で1時間以上の場所まで面接に出かけた。「日本語能力だけの問題じゃない、日本人でさえ首を切られて職に困っていたんだから」と思い返す表情は険しい。
 「パニックになり、5月からは帰国だけを考えていた」。そんな状況の中で、精神的に追い詰められての決断だった。
 Kさんの周りで支援金を受けて帰伯した人に若い人は少なく、50歳を超える人ばかり。家を購入したばかりで仕事を失った知り合いも多かった。「正直彼らがどうなったのか、私も分からない」と話すKさんは、「実際、中にはローンを抱えたままブラジルに逃げ帰ってきた人もいると思う」と眉をひそめる。
 一方で、同工場ではKさんの帰国直後から再採用が始まっていた。8月、ブラジルにいるKさんのもとにもラインの班長から戻らないかとの誘いのメールが届いたという。しかし、支援金を受給したKさんは、「3年間の入国制限から断らざるを得なかった」と苦い表情を浮かべた。
 同じラインで働いていた10人のブラジル人のうち、帰国したのはKさんだけ。それ以外の全員が再採用の連絡を受け、工場に戻ったという。
 Kさんの場合、ハローワークに帰国支援金受給の申請を出してから、返答を受け取るまで1カ月がかかり、引っ越しなど出国の準備はぎりぎりだった。支援金が振り込まれたのは、帰伯して1カ月と20日後だった。
 「15年まじめに働いたけど1度もボーナスをもらったことはない。有休もほとんど取らせてもらえなかった」というKさん、「今回もらった家族の帰国支援金100万円は、今までがんばって仕事してきた見返りみたいなものじゃないかな」と考える。
 Kさんは帰伯後すぐ、2カ月間自動車修理の専門学校に通ってもともとの専門を深め、その後まもなく近隣のサントアマーロ市で自動車修理業の仕事が見つかった。
 デカセギの仕事では、1カ月以上休みなく働くこともあった。今の仕事では定まった休日がとれるそうだ。「今年は家族と一緒に落ち着いたクリスマスを過ごせた」と話すその表情は和らいで見えた。(つづく、長村裕佳子記者)

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