日伯論談=テーマ「日伯経済交流」=第47回=小池洋一=立命館大学教授=日本のブラジル化

2010年4月24日付け

 日本のブラジル化という議論がある。経済格差、貧困の広がり、雇用の非正規化、犯罪の多発など、日本がブラジルに似てきたというのがその意味である。中国についても同様な理由からブラジル化が問題とされている。意味は異なるが他にもブラジル化の喩えがあった。インドのブラジル化である。政府の過度な介入によって経済が非効率になるというのがその内容であった。いずれもブラジルには失礼な喩えであるが、ブラジルにもベリンジアという喩えがあった。ブラジルは少数の豊かなベルギー人と圧倒的多数の貧しいインド人が住む国だという意味である。
 これらの比喩は現実のすべてを伝えていない。日本のブラジル化もそうだ。確かに日本はかつて経済的成功を象徴する国であった。これに対してブラジルは開発が失敗した国であった。書名は忘れたが、かつて日本に関する本のカバーにブラジル国旗が使われていた。そこには、秩序と進歩というブラジル国旗の言葉が日本にこそ相応しいものであり、ブラジルにとっては皮肉でしかないという思いが込められていた。しかし、いま我々が目にする両国の姿はどうであろうか。ブラジルは高い経済成長を遂げ、国際社会のなかでプレゼンスを高めている。日本のブラジル化は時代遅れの喩えになりつつある。ついでに言うと、インドもまた、近年急速な成長を遂げ、ベリンジアは死語となりつつある。
 日本は、優れた工業技術、環境技術などをもちながら、何らの成長戦略を示しえないでいる。中国、インドなど新興国の成長に便乗して景気を浮揚させようとしているだけである。家計には莫大な金融資産がありながら、国内で有効に利用されていない。財政は危機的な状況にあるが、財政規律が軽視されている。膨大な財政赤字を招いた利権政治と官僚組織には何らメスが加えられていない。他方でセイフティネットは綻びを広げている。雇用、老後の不安から人々は消費支出をせず、デフレスパイラルをまねいている。大都市と地方、社会階層間の格差は益々広がっている。
 これに対してブラジルは明確な成長戦略をもっている。農業、資源を軸とした産業コンプレックスの形成に加えて、自動車、航空機、バイオ、ITなどを戦略産業と位置づけ、「成長加速化プログラム」などによってインフラなど産業発展のための制度の整備を図っている。財政責任法は、各レベルの政府に財政規律を強い、財政の均衡を促がした。リーマンショック後にブラジルは、景気を下支えするため積極的な財政出動を行ったが、それは財政が健全だから可能であった。ボルサ・ファミリア(家族支援プログラム)、最低賃金引き上げなどの貧困政策は、貧困削減だけでなく、内需の拡大をもたらした。ボルサ・ファミリアは、財政制約のなかで、援助する対象を絞り、また子供の就学などの条件を付けて、貧困政策の効果を上げようするものであり、日本のばらまき型のこども手当は大きく異なるものである。
 企業の活力にも差がある。日本企業は、賃金抑制、非正規雇用、あるいは安価な労働力を求める海外生産など、ローロード(低い道)によって、国際競争に勝とうとしている。企業がローロードをとるのは社会的責任意識が低いせいもある。企業は株主のものだと居直り、企業が滅びれば雇用も守れないと脅す。環境保護は企業成長を妨げると言う。
 しかし、企業が辿る道はローロードだけではない。技術革新を通じて新しい製品、産業を創造するハイロード(高い道)という道もある。持続的な経済成長を実現するには、ハイロードを選択する必要がある。ヴァーレ、エンブラエルの例を出すまでもなく、ブラジル企業は活力、創造性に溢れている。地方でも新しい企業が続々と誕生している。社会的責任意識も高く、積極的に社会貢献活動を行っている。
 日本の政治は経済以上に劣化している。政治から理念、構想力が失われている。政治に国民、有権者の声が反映されない。議員は、本来は有権者の代理人であり、委託者である有権者の利益のために行動する存在であるが、現実には特定の利害や自己の利益のために行動する傾向が強い。経済学で言うエージェンシー(代理人)問題の発生である。政治は家業化、世襲化している。官僚はモラルを喪失している。無駄な公共工事、官製談合が横行し、乏しい税が無為に失われている。ブラジルにも同様の問題があるが、かつてに比べて政治は効率性、透明性が増した。ポルトアレグレでは1989年に、予算編成に住民が参加する参加型予算が始まった。参加型予算は、エージェンシー問題など機能不全に陥った間接民主主義を補完するとともに、効率的で公平な財政支出を可能にするものであった。
 外交力の差はもっと大きい。ブラジルは、中国、インドなどと協調し、途上国の支持をとりつけて、常任理事会などの国連改革、IMF改革、地球温暖化対策などで指導権を強めようとしている。米国の一国支配主義を批判する一方で、エタノールでは米国と手を結ぶなどのしたたかさを見せている。これに対して日本はどうか。普天間基地移転ひとつとっても米国に何ら物言えず、不当な地位協定改定にも着手できないでいる。貧困、核、環境、人権など国際社会が抱える問題において、指導力を発揮できないでいる。
 もちろんブラジルにも多くの問題がある。減少したが貧困はなお広範囲に存在する。格差もなお厳然と存在する。政治の腐敗は続いている。国際社会におけるプレゼンスの上昇に伴い、ときに傲慢さ、覇権主義が見え隠れする。しかし確認したいのは、もはやブラジルを否定的なイメージによってのみで語れないということである。ブラジルはさまざまな分野で日本が学ぶべき存在でもある。ブラジルの優れたものから学ぶという意味で、日本のブラジル化が必要になっているのである。

小池洋一(こいけ よういち)

 埼玉県出身。立命館大学経済学部教授。アジア経済研究所研究員、同地域第二部長、サンパウロ大学経済研究所客員教授、拓殖大学開発学部教授などを歴任。2007年から現職。(社)日本ブラジル中央協会理事、アジア太平洋資料センター(PARC)理事などを兼任。専門は開発研究、ラテンアメリカ地域研究。61歳。

※この寄稿は(社)日本ブラジル中央協会の協力により実現しました。