西村さんの死に想う=ニシムライズムの灯を消すな=サンパウロ人文研顧問=宮尾 進

ニッケイ新聞 2010年5月6日付け

 日本移民百年祭も何とか無事に終って、すでに2年近い年月が経過してみると、これは私だけの感懐かもしれないが、どうも100年というくぎり、節目をつけて、一つの時代が終ったという気がするのである。
 もちろんそれは「同胞社会」あるいは、「邦人社会」に続く、日系「コロニア」というあくまでも移民世代を中心とした、ブラジル「日本人社会」といってもいい世界の終焉であり、これに替わる「コムニダーデ・ニッケイ」と後継世代が言い慣らす日系社会は、混血日系層も含めて、今後数の上ではますます増加して行くであろうことは否定できない。
 だが、それは前述の移民世代の作って来た世界とはもう別のものであり、百年祭を境として、移民世代のもたらした日本的なもの、広い意味の日本文化なるものは、ほとんど継続されることなく、プツンと切れて消え去ってしまうのではないか、という懸念が強く湧くのである。
 そんな想いに、この度の西村さんの死に接して、一層深く捕われるのを、私はどうしようもなかった。
 西村さんの生き方は、恐らくは移民世代を代表する最後の人だったと思う。それも今の日本人からは失なわれてしまった、自分の信念に忠実で、容易に人の意に屈しない、気骨のある明治人の典型のような人だった。
 その気骨をもって、西村さんはブラジルという異国・異文化の中で、ブラジル農業界の発展、また、新しいブラジルの農業者を育てようという意思をもって、農工学校を設立し、青年の教育を目指してきた。
 一介の外国移民であった西村さんが、この学校を創設した理由を「裸一貫でブラジルに来た自分が、農業機械で儲けさせてもらったのだから、その儲けの一端を農業に返すのが最も妥当と考え、ブラジルの農業者に不足している農業機械に対する知識を普及させることが大事という思いから、農工学校を建てることにした。つまり、農業知識とともに、機械を自由に使い、修繕もある程度出来る、労働者まかせではなく、自分が先頭に立って経営にあたる農業者を育てたい、という発想からこの農工高校を建設し、ブラジル社会に報いることにしたのだ」と語ってくれたことがあった。
 その実、この学校の教育は日本文化に基づく、というよりも、明治の人間の誠実・勤勉・勤労を尊しとするモラルを、とにかくそれの欠如が、ブラジル発展の障害となっているのを是正するために訓育しようとするかのように、この学校教育は厳しいものであった。
 全寮制で、月1回の外出しか許されないほか、寮生は清掃から食事当番まで自主的に行うものであった。ブラジルの習慣にはない、希有なこの厳格な共同生活に耐えられず、退校してしまう学生もあったが、3年間これに耐え、晴れて卒業できた青年は、見違えるほど大きく成長し、これがブラジルの青年かと疑うくらいの違った人間に育っていった。
 それを証明する1つの逸話は、卒業して次の1年間は北米などの農家へ研修にいくのだが、研修先のパトロンが頼みもしないのに、故障したトラクターをまっ黒に手を汚して直してしまったりするのを見て、パトロンは、いったいこれらの生徒を教育したブラジルの学校はどんな学校なのかと、わざわざ見に来たこともあったという。
 西村さんの目ざした学校は、言って見ればブラジル人に足りないものを是正・修正しようとする人間改革を目指すものでもあったのである。
 だがこの農工高校も昨年12月、26回目の卒業生を送って、終ってしまった。
 その終焉に至った理由はここでは省くが、私は結論として、たとえそれが公正な判断に基づいて、価値あるモラルと評価されるものであっても、他国の文化の中にそれを移植することは、そんなに容易なことではない、と知らされた思いで、この学校の終焉を惜しんで見ている。
 当事者である西村さんは、これに関して多くは語らず終ってしまったが、この終焉は、かくしゃくとして、百歳を迎えるのは誰の目にも当然のことのように思われていた西村さんの天寿を縮めることになってしまったのかもしれない。
 まことに残念なことではあるが、しかし、卒業式の席で、「この学校をやめないで続けてくれ」と叫んでいた卒業生と同様、この学校を出て、世に出て行った若者は八百数十人にのぼる。ブラジル全体の中ではささやかな数ではあるが、彼らはブラジル社会の中に生き、ニシムライイズムに基づく人々を僅かずつでも育んで行ってくれるであろうと私は期待している。
 私の仲間たちは今、まことにささやかではあるが、「日伯学園」に類するものを数多く作り育て、そこの教育を通して、移民世代がこの国にもたらし、この国の発展に役立つ日本文化― 西村さんの目指した誠実・勤勉・勤労を尊ぶ精神をも含めてーを、この国、社会の中に日本移民のあったことの証として、伝達滲透させて行くことを目指している。
 西村さんはそれを目指して、生涯を貫いた明治の日本人。そして、日系「コロニア」人最後のひとりであった。
 西村さんの死は、そうした人々の終焉の思いを深く抉るものであるが、私たちは西村さんの死をもって、移民世代のもたらしたものすべての終焉としてはならない、と考える。
 それが成るか成らないかは後のこと。ともあれ、私たちは西村さんの精神を受けついで、努力しなければならないだろう。