学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《4》=杉野農大教授の教え

ニッケイ新聞 2010年6月12日付け

 大成功に終わった1次団。さらに、2次団までは連盟の活動が派遣一色に塗りつぶされた。それからは学移連の組織作りが進められた。当時は関東と関西の対立や選考基準の曖昧さなど、草創期ならではの内部混乱もあったようだ。
 そのような状態の学移連を、組織として確立させたのが第9期の富田博義委員長(早大)。1962年のことだ。全国の加盟校に、一律に派遣へのチャンスを与えると共に、研究発表など多岐にわたる事業を行った。
 この頃は各大学に中南米や海外を志向するサークルが多くあり、活発で、情報を求めていた。そういったサークルに手紙を出したり、実際に足を運んだりと参加を呼びかけ、加盟校も増加していった。
 さらに、連盟員の団結と実地の訓練も兼ね備えた夏期全国合宿もこの年に始まった。第1回夏期全国合宿は50人以上が各地から馳せ参じ、石川県経営伝習農場で開かれ、昼はワーク(農作業)、夜は討論、ゼミナールなどを行った。この合宿で東京農大農業拓殖学科・初代学科長で海外移住研究部の部長をしていた杉野忠夫教授が顧問会会長に就任した。
 杉野会長はこの頃の学生に多大な影響を及ぼしている。第9期書記局長の大久保正孝氏(神奈川大)は記念誌の中で同氏のことを「拓殖史観、いわゆる杉野理論ですね。でも理論だけでなく実際に合宿なんかにも参加して頂き、一緒になって討論し、一緒になってワークし、その中で指導してくださっていたから頭でっかちという感じではありませんでした。先生というより同じ仲間、おやじさんのような方でした。人間的にも理論的にも私たちの柱となって下さっていました」と振り返っている。
 第3次団の派遣からは選考試験が始まった。それまでは、連盟活動に熱心な大学から選ぶという曖昧さがあったからだ。
 選考では学移連の主旨を把握しているかどうかや、実際にマラソンや丸太を持ち上げることもさせ、体力も重視した。それを受け第3次団8人は62年6月2日「高花丸」で出航した。翌年、10期の選考委員には外務省移住局や経団連、総理府や海協連などが名を連ねている。
 64年の総会では関西支部に続き、関東、東北、九州の3支部が設置された。同年8月の夏期全国合宿は秋田県立天王経営伝習農場で行われ、多くの大学から200人が参加した。65年にはGLC(グループ・リーダーズ・キャンプ)合宿が開かれ、リーダーの育成にも力を注ぎ連盟意識の統一にも力が注がれた。
 同年6月29日、杉野会長が死去し、熊本県阿蘇地方で開かれた第4回夏期全国合宿で行われたワークでは石橋が造られ、同氏を偲んで「杉の橋」と名付けられた。後任には日本大学農獣医学部拓殖学科の後藤連一教授が就任し、学生達にこれまた多大な影響を及ぼしていった。(つづく、金剛仙太郎記者)

写真=石川県経営伝習農場で豚を屠畜して焼き肉に(1962年8月)(日本学生海外移住連盟創立50周年記念・記録写真集より)