日本移民の日 特集=サッカーW杯とナショナリズム=ブラジルの歴史探訪=なぜ国技になったのか

ニッケイ新聞 2010年6月26日付け

 「ブラジル人はW杯の時だけ愛国者だが、ドイツ人はサッカーでしか愛国心を公にできない」という有名な言葉がある。これはサッカーとナショナリズム(国粋主義)の緊密な関係を端的に示した言葉だ。その意味で、日本の日本人はドイツ人に近いが、日本移民はブラジル人に近いともいえそうだ。なぜブラジルでサッカーが国技として発展したかを語る上で重要なのは、W杯という大会自体が最初からグローバリゼーションの落とし子のような発想で企画されたことにある。国境を超越するグローバル化の裏返しとしてナショナリズムが同時形成されてきたことが、その歴史から透けて見える。労働力のグローバル化をしめす移民という存在は、その重要な一部といえる。ブラジル民挙げての祭典であるW杯という機会に、その歴史を振り返ってみた。

南米大陸との深い関係=五輪から独立したW杯

 W杯が生まれた社会背景を見てみると、19世紀の欧州大陸はフランス革命によって絶対君主制がひっくりかえされて、国民主権の国家という発想が広まっていた時期であることが分かる。
 くわえて英国からはじまる産業革命を経て、労働者階級という中産階級が勃興し、農村から過剰人口が押し出されて新大陸に流れこむ大変革期であり、富国強兵を旨とする国家形成期だった。
 国家の勢力争いが際限なく繰り返される戦禍に苦しんでいた欧州で、戦争によらない平和な国別対抗のスポーツイベントとして、1896年にピエール・ド・クーベルタン男爵(仏人)が呼びかけて第1回五輪(アテネ)が開催された。
 第一次大戦中は開催不可となったが、再開第1回目の1920年にサッカーも公式競技に採用され国際化が進む。20年はベルギー、24年、28年と連続優勝したのはウルグアイだった。つまりサッカーが盛んだったのは本場欧州と欧州移民が多く入った南米だった。
 「参加することに意義がある」という国家間の交流の場としてのアマチュア精神を重視した五輪に対し、W杯の発想は違った。高いレベルの競技を見せるには選手の生活の安定を図る職業化は不可欠であり、クラブチームから選りすぐったスター選手を国代表として集め、国対抗で戦わせるという発想がFIFA(国際サッカー連盟)には最初から強かった。
 五輪からの独立を企図していたFIFAは、やはり仏人のジュール・リメの呼びかけにより、4年ごとの五輪の中間年を選んで30年に第1回W杯を立ち上げた。
 アマチュア精神の五輪に対し、プロ化のW杯では大きな違いがあるが、国単位で競わせるという大前提はいっしょだ。国家単位で競うという発想自体が、国民主権の国家を尊重するフランス精神からきている。戦争によらない国境を超える力がグローバリゼーションとすれば、国家という国境内を固めようとする力がナショナリズムであり、相互に働く反作用の中間点として生まれた大会が五輪とW杯といえる。
 W杯の第1回開催地は、独立百周年を祝う強豪ウルグアイが選ばれた。先輩格で欧州文明の原点たるギリシャで始まった五輪への配慮があったのだろう。だが、結果的にそれが南米大陸に大きなインパクトを与えた。
 この時、参加国は南米7カ国(ウルグアイ、アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ペルー)、欧州4カ国(ベルギー、仏、ユーゴスラビア、ルーマニア、北米2カ国(メキシコ、米国)の13カ国で、開催国が優勝した。
 なぜ南米にかたよったかといえば、開催地が南米だったからだ。南米は欧州勢にとってはあまりに遠かった。移民と同じ大西洋路線の船旅に耐えて開催地に到着しても十分な体調を整えられず敗退し、地元有利という最初の前例を作った。
 これは大半が独立して百年足らずの新興南米諸国に対して、「世界一」になれる数少ない競技であり、政治家にとっては国威発揚に利用できるスポーツとして深く脳裡に刻み込まれた。

バルガスが国技に制定=ブラジル国民像形成に

 南米を舞台に行われた〝世界大会〟であるW杯は、ブラジルにも大きなインパクトがあった。
 ブラジルサッカー史は1894年に英国から持ち込まれたエリート階級のスポーツとして始まるが、第1回W杯の30年は奇しくもゼツリオ・バルガスが政権をとった年であり、彼はその特質を素早く見抜き国技に育てようと考えた。
 1932年にコーヒー景気などによって新興するサンパウロ州勢はリオの連邦政府に対して護憲革命を起し、3カ月後に講和が成立するが深いしこりが残った。バルガスはこの経験から、自然形成されつつあった「州民」アイデンティティよりも、「国民」を形成するべきだと痛感したに違いない。翌33年に両州の交流促進のためにサッカーのリオ・サンパウロ・トーナメント戦が始まる。
 バルガスが意図したのは、サッカーというスポーツを通して新しいブラジル国民イメージを形成することであった。南米大陸の半分を占める広大な国土で、最大の文化的共通項はポルトガル語とカトリックしかなかった。隣国に侵略されない強い国家になるためには、州などの地域的なまとまりを超えた「ブラジル人性」を生みだして植え付け、国民としての団結をあおる必要があった。
 例えば1900年代のサンパウロ市は人口の3割以上がイタリア移民であり、外国移民を合計すると半分以上という状態であり、「どんな人物がブラジル国民か」という国民像はごく曖昧なものだった。
 戦前の移民国家ブラジルの国民像は白人が主であったが、欧州との差別化を模索する中で、混血主義も立ち上がりつつあった。インディオ、黒人、欧州人から日本人まで多様な民族が集ったこの国で国民意識を植え付けるには、日本のような「単一民族」幻想は不可能だ。
 試合で勝つに、身体能力にすぐれた黒人などの非白人の能力が重要視されはじめ、白人だけでない混成部隊こそが最強のチームであるという実績が生まれつつあった。多人種の団結がサッカーをとおして浸透し、当初はエリートしか所属できなかったクラブも、20年代から非白人を少しずつ受け入れ始めていた。
 国民の大半を占める黒人や褐色の肌のムラートがこのスポーツでは主役になれ、「ジンガ」という相手をだますフェイントの美学が、国民と共鳴しあう中で洗練されていった。
 バルガス大統領はブラジル独自の文化を模索するなかでサンバ、カポエイラなどの黒人のリズム感覚や身体能力を取り入れた独特の動きがサッカーにも反映されつつあることに気付き、国民アイデンティティを形成するために国技として普及する国策をとる。
 サッカーが上達するにはルールを覚え、熱心に練習をすることが必要だ。ブラジルには長い奴隷時代につちかわれた「マランドラージェン」(主人や相手の目をごまかして上手に怠けることが生き残る術であり、上手な生き方であるという価値観)が一般的だった国民に対し、サッカーを通して規律を教える教育的な効果も大きかった。
 普及するには、わかりやすい目標が必要であり、それがW杯優勝だった。そこでバルガス大統領は33年、サッカー選手のプロ登録を義務づける法律を施行したが徹底できず、34年大会にはアマ選手のみが参加、38年からプロ選手化する。
 30年代以降、人種や経済階層を問わずにボールさえあればどこでも誰でも出来るスポーツとして普及され、アングロサクソン的な直線的で素早いパス回しをする欧州勢と対比する形で、黒人的身体リズムを含んだジンガの入った「ブラジル式」スタイルが徐々に確立されていく。

新国家体制の中で=国威発揚のスポーツ大会

 スポーツとナショナリズムとは関係が深く、専制政治のプロパガンダとして使われてきたことは知られている。
 ナチス政権が1936年のベルリン五輪で国威発揚したことは広く知られているが、ムッソリーニ政権はW杯で同じ事をした。2回大会である1934年、欧州大陸初の大会はイタリアで開催され、ホームでの必勝を狙うイタリアは世界から移民子孫を呼び戻した。
 アルゼンチンからモンチ選手、ブラジルからもイタリア移民子孫のフィオ選手、南アからも呼び寄せていわばイタリア連合軍で見事優勝した。このためブラジルとしてのW杯初優勝は1958年だが、「ブラジル人」としては1934年と言われる。この時の最大得点差を記録した試合は対米国戦で、伊は7対1で大勝した。
 イタリアは次の1938年フランス大会で連続優勝を果した。この時、決勝の対ハンガリー戦の前、ムッソリーニは自国代表チームの宿泊するホテルに、電報で「勝利か死か」とのメッセージを送り、選手等は文字通り死にものぐるいで試合を戦ったといわれる。
 戦前のバルガス独裁政権(1937~45)は「新国家体制」を打出し、日本移民を含めた外国移民に同化政策を強いる一方で、ブラジル国民を形成するナショナリズムを強化した。官僚機構や労働組合とともにサッカーを管轄する全国スポーツ評議会を整備し、組織化する道を開いた。
 1940年、サンパウロ州のサッカーの殿堂パカエンブー市営蹴球場が建設された。42年にリオで開催された汎米外相会議で米国に説得されたブラジルは、枢軸国との国交断交を宣言。バルガスはイタリア移民が中心になったスポーツクラブ「パレストラ・イタリア」に対し、名前を変えないと接収すると脅しをかけ、現在の「パルメイラス」に変えさせた。

戦後最初の洗礼=〝マラカナンの悲劇〟

 戦後1945~64年はバルガスの強い影響を受けた民主社会党(PSD)とブラジル労働党(PTB)が政権を握ったが、一貫してサッカーを振興した。46年に50年大会のブラジル開催を決め、それに向けて、パカエンブーを遙かに上回る規模で、決勝戦会場となる世界最大のマラカナン蹴球場を建設した。
 第2次大戦を挟んで最初のW杯となった1950年は自国開催。当然優勝すると全国民が信じていた決勝戦で、ウルグアイに2対1で惜敗した。
 この〃マラカナンの悲劇〃の後、ブラジルは必勝の誓いをたてる。負けたことにより、むしろ国民心理にサッカーが深くしみこんだ。
 悔しさをバネに1958年のスウェーデン大会、62年のチリ大会で連続優勝。その立役者となったサンパウロ州出身の主将ベリーニ、黒人のペレやジジ、インディオの血ひくガリンシャらの存在による優勝は「混血主義」を決定的なものにし、あらゆる地域と経済階層と人種を統合した国民イメージを広く知らしめた。
 経済的に勃興するサンパウロ州民は1932年、リオを首都とするバルガス政府に叛旗を翻して内戦まで起こした歴史的な確執があった。あらゆる街路に人名の付けられるブラジルにあって、サンパウロ州は今でもバルガスの名を冠する場所がほとんどない唯一の州だ。だが、W杯優勝で見せた団結は、心のしこりを溶かす特効薬として機能した。

軍事政権下のサッカー=グローバル化とスポーツ

 そして64年に軍事政権(1964―85年)のクーデターが起き、66年大会は振るわなかった。60年代後半から年率10%もの経済成長を遂げる「ブラジルの軌跡」と呼ばれる時代に入った一方、治安面では問題を抱えていた。学生運動、左翼武装闘争に対して鎮圧のための拷問や不当抑留などが起き、国民に不安感が広がっていた。70年3月11日には、大口信夫在聖総領事が左派ゲリラに誘拐される事件までおきた。
 70年メキシコ大会にあたり、メジシ大統領(69―74年)は代表監督交代を指示したとの説もあり、政治同様に強硬路線だったと言われる。ザカーロ監督は政権から期待に応えて、見事に世界初の3度目の優勝を果し、軍事政権は国民からの支持を高めた。
 それまでは中西部や南部中心のスポーツだったサッカーは、翌71年に現在も続く全国選手権大会が始められたことで、さかんでなかった北部、北東部、西部でも盛んになり名実ともに国民的スポーツになっていった。ただし74年のW杯は失望する結果になり、オイルショックによる経済低迷で〃ブラジルの奇跡〃は終わりを告げ、軍事政権への支持率も低下し始める。
 世界で5番目に広い国土、南米大陸の半分をしめるブラジルは、サッカー全国選手権を通して社会統合をはたし、国民意識を形成してきた。
 ちなみにアルゼンチンは78年、86年に優勝しているが、これも軍事政権と関係している。78年は亜国大会で、ホームでの初優勝は国をあげての悲願であり、達成したことで国民は溜飲を下げた。その裏で軍事政権(1976―83年)は、左派活動家の拘束や行方不明事件が頻発し、国民が不安を抱えていた時代だった。
 82年に亜国は山積する国内問題から国民の目を反らすためにフォークランド戦争(亜国ではマルビナス戦争と表現する)をおこしたが、結局は降伏することになり、翌83年に軍事政権自体が崩壊した。
 だから86年メキシコ大会で亜国が英国代表と戦ったときは〝敵討ち〟と呼ばれ、マラドーナがゴール前でヘディングに見せかけたハンドで2点目を入れる事件が起きた。審判は得点をみとめたため、後々まで〝神の手〟と言われる。
 興味深いことに米国は第1回大会に参加しているが、のちにこの連列から離れていく。米国が世界の覇権国として影響力を広めていく過程で、同じフッテボール(サッカーのポ語)でも「アメリカンフットボール」や野球などに特化していき、独自に「ワールドゲーム」と呼ばれる大会を組織していく。野球は主にアジアや中米などの覇権影響圏に広まる。
 90年代はスポーツ自体のグローバル化の時代でもあった。80年代以降に起きた世界的な外国人移住労働者の移動開始(日本ではデカセギブームに)を経て、大量に米国に流れこんだ中南米の移民がサッカーを愛好していたことも大きな要因となり、スポーツ・ナショナリズムより商業主義が強くなった米国では、94年にW杯が初開催され、プロチーム設立につながっていく。
 95年に近鉄バファローズのエース投手だった野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースに移籍し、名声を得たのをきっかけに次々に日本人選手がメジャーリーグへ移ったのもグローバル化の一端だ。
 ブラジルが70年に3度目の優勝を果し、欧州に対する優越性を世界が認めるようになった結果、非欧州人としては初めてブラジル人ジョアン・アベランジェが国際サッカー連盟(FIFA)会長に就任した。彼はアフリカやアジアの国々が参加できるようにW杯大会参加枠を16から24に増やした。
 70年代まで主に欧州と新大陸に限定されていたサッカー人気は、アベランジェの時代にくびきから解放され、世界に広がっていく芽を育んだ。彼の在任期間の最終年にはさらに32に拡大され、その年に開催された98年仏大会に日本はようやく初出場を果す。

14年伯大会に向けて=サッカー外交を展開

 ウィキペディアによれば、ブラジル全人口の16%にあたる3千万人がこの球技を楽しみ、800ものプロチーム、1万3千ものアマチュアチームがあるというから、まさに国民的なスポーツだ。
 21世紀に入り、ブラジル人サッカー選手の輸出額は、バナナ、リンゴ、ぶどうなどを超えた。08年に1176人が輸出されたが、最大の受け入れ国は言葉の同じポルトガル。地域としては欧州で762人を数える。2番目がアジアで222人だ。
 今回も日本代表の田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)のように、世界各地の代表チームに帰化ブラジル人がいる。田中の場合、アジアから来た日本移民の子孫がブラジルでサッカーを覚えて日本に逆輸入したという意味で、サッカーのグローバリゼーションを体現した人物といえる。
 すでに輸出産業として育っているサッカーを、ルーラ政権は政策として活用している。08年からポルトガル語圏諸国(全8カ国)のサッカー指導者を招聘して指導する「国際サッカー学校」を始めた。いわゆる〃サッカー外交〃だ。
 そしてブラジルにはW杯の度に通信技術の革新がもたらされる。70年大会では人工衛星で初めて北部と南部が遠隔通信で結ばれ、大陸の半分を占める広大な国土に統一感が生まれた。地方ではトランジスタラジオにかじりついて聞いていた時代だ。
 今ではW杯のたびに新型テレビが大量に売れる。現在の売れ筋は日伯方式の地デジ放送が見られる薄型タイプだ。2014年大会にむけて高速鉄道構想も練られている。
 「サッカーはアルチ(芸術)だ」とブラジル人は信じて疑わない。組織的なプレーよりも華麗な個人技を、守備的で見所のない試合より、攻撃的でスペクタクラールな展開を好むのは国民的な美学といっていい。
 熱狂したサッカー場の興奮からは、宗教的な集団陶酔感すらただよう。パカエンブー蹴球場内にあるサンパウロ市立サッカー博物館の見所の一つは、大応援団のど真ん中にいるかのような雰囲気を、映像と立体音響で再現したものだ。薄暗い展示場の一角でまっていると突然、得点が決まって地響きのような大歓声が響き、打楽器隊に先導された応援歌が響く。そんな不思議な展示の中にじっとたたずみ、余韻に浸っているブラジル人若者の姿を見ると、彼等にとって応援することで自分の存在を確認しているかのような、人生の重要な一部なのだと実感させられる。
 ただし、今回のドゥンガ代表監督は、美学よりも勝敗を優先し、綿密なデータで戦略をくみ上げていくタイプであるがゆえに、少々マスコミや国民の受けが悪い。むしろ、日本代表監督にこそ向いた特質かもしれない。
 ブラジル代表は「優勝」しただけでは許されない。国民一般が「美しく勝つ」ことをセレソンに義務づけるというコンセンサスをもつ稀有な国だ。
 11日から始まったW杯南ア大会は、2014年大会の舞台となるブラジルとって前哨戦というべき大事な大会だ。4年後に主力となる若手選手に国際舞台を踏ませるようなかなり思い切った布陣となっている。
 4年後にはきっと1950年の無念をはらすに違いない。その時は地デジ日伯方式のテレビで応援するのはもちろん、新幹線でリオに応援いくのも夢ではないだろう。(深)