神風特攻した子供移民=「只今攻雲に征きます」=高須少尉の遺書を公開=肉親の写真抱いて突撃

ニッケイ新聞 2010年8月26日付け

 ブラジル靖国英霊奉祭会の広田敏男世話人が訪日した折り、16日に靖国神社で教えられたのが子供移民としてマリリアで育った高須孝四郎さんの遺書の存在だった。同神社の戦没者データベースを「ブラジル」で検索すると、唯一出てくるのが高須さん。神風特別攻撃隊第7御楯隊として、終戦一週間前の1945年8月9日に日本の東南方洋上で戦死した。享年23。愛知県幡豆郡が本籍だった。終戦を迎えた8月の機会に、ブラジルから日本軍に徴兵されて戦士した子供移民や二世ら8人の一人の生涯を振り返ってみた。

 高須さんが特攻直前にしたためた、姉と兄に向けた遺書などの遺品が、今も靖国神社に保管されている。遺書には「常夏の南米ブラジルより日本の国に帰りて何も知らない僕を良く教え導いてくださったことは、心から感謝しています。・・・身を海軍に投じて以来、未地の生活日本の軍隊生活は最後の魂の道場でした」とあり、「肉親の写真を胸に抱いて・・・、私は只今より攻雲に征きます。再合掌。上空より皆さんさようなら」と締め括られている。
 故内山勝男さんの『蒼氓の92年』(東京新聞出版局、2001年)によれば、孝四郎さんは1931年、9歳の時に、12歳年上の兄・重次郎さんを追って移住した。重次郎さんは両親や弟妹と共にマリリアで辛い開拓生活を送っていた。
 内山さんは書く。幸四郎さんは「19歳の時、兄の許しを受けて日本に帰国することになった。親代わりの姉まきといっしょに帰国、早速、憧れの航空兵を志願した。あと数日の終戦も知らず、B29迎撃のため飛び立ち、敵機に体当たりして護国の鬼と化した。・・・遺書からは、特攻隊員として涙をかくして書いた悲痛な思いが紙背に読み取れる」(115頁)。
 なお、靖国神社のデータベースで遺族の在住地として「ブラジル」が表示されるのは22柱(はしら)あるが、戦後に渡伯した遺族である可能性があり、全員が戦死した二世の遺族というわけではないようだ。
 古参二世の故馬場謙介さんの著書によれば、戦時中に日本にいた二世の集まり「南桜会」には50人ほどの会員がいた。うち適齢期の15人が徴兵され、そこから6人が戦死した。高須さんのように南桜会に入っていない兵士もおり、実数はさらに多いとみられる。
 広田世話人は、「戦死者の氏名や出身県が分かれば、ブラジル日本会議を通して靖国神社のデータベースで調べてもらうことができる。遺族の方で問い合わせたい方は日本会議(11・3271・6304/3207・1307)まで連絡を」と呼びかけた。
 【判明している子供移民や二世の日本軍戦死者リスト】《1》斎藤ジュリオ行雄(44年2月9日、南方海域のエビゼイ島で玉砕)、《2》我那覇宗成(45年2月14日、戦死)、《3》我那覇宗弘(45年6月20日、沖縄戦で玉砕)、《4》島袋貞雄(沖縄戦で戦死)、《5》甲斐繁(39年8月23日、中国戦線で戦死)、《6》鐘ガ江久俊(44年9月14日、中国雲南省にて戦死)、《7》藤尾千比古(44年12月8日、浜松陸軍病院で死亡)「遺留品の中の軍隊手帳から硫黄島守備隊にいたことが分かっている」という。《8》高須孝四郎(45年8月9日、神風特攻で戦死)