独立記念日特集=ブラジル歴史物語=幻の〃黒人共和国〃=逃亡奴隷が自由謳歌したパルマーレス=アフリカ文化守り抜く
ニッケイ新聞 2010年9月7日付け
1822年9月7日、ブラジルはポルトガル王室からの独立を宣言して帝国となり、その後、1888年に奴隷解放、翌89年に共和制宣言が出され、現在の政体を整え、ブラジルは大きな発展を遂げてきた。それ以前、17世紀に北東伯で〃黒人の共和国〃と呼ばれる3万人の人口を抱える共同体が形成され、アフリカ文化を守り、自由を謳歌したことはあまり知られていない。ペルナンブッコ州の内陸部にあった歴史上最大のキロンボ(またはモカンボ、ファゼンダから逃亡した黒人奴隷によって形成された秘密集落)「パルマーレス」と、そこが生み出した英雄ズンビという特異なブラジル史の一頁を、独立記念日のこの日に振り返ってみた。
40人の反乱が出発点
パルマーレスはペルナンブッコ州にあったキロンボで、州都レシフェから約130キロ以上内陸部にあり、100年間も存続して、多い時で3万人もの逃亡奴隷が生活したとされている。アフリカ大陸以外で、ほぼ唯一の黒人による大規模な自治共同体であり、歴史的に非常に珍しい存在といわれる。
16世紀後半、ペルナンブッコ州ではサトウキビ農園での労働力を求めて多くの黒人奴隷がアフリカから連れて来られ、州都レシフェの港から上陸していた。過酷な労働から逃げ出す奴隷も続出したが、通常はすぐに連れ戻されるか、森の中でトラや毒蛇に遭遇し死亡する者が多かった。
1597年、40人の奴隷が一斉に反乱を起こし、農園主などを虐殺する事件が勃発する。白人からの復讐を恐れた40人は即座に逃げ出し、定住を考えたのがセーラ・ダ・バヒーガと呼ばれる州奥地の山の頂上付近だった。これがパルマーレスの原点となる。
森の奥深くに逃げ込み、隔離された共同体を形成した黒人たちは、独自のルールや規則を生み出し、統制のとれた集団生活を営んだとされ、〃黒人の共和国〃と比喩される独自の存在だった。
肥沃な土地でフェイジョン、マンジオッカ、ジャガイモ、サトウキビを栽培したほか、鶏や豚も飼育するようになった。黒人たちはこういった品物を持参しては山のふもとまで下り、政府の目を盗んで塩や武器、衣服などの物資と交換していた。
次々に政府軍を撃退
また、パルマーレスには女性が少なかったことからファゼンダに入っては、パルマーレスへ逃げたいと願う他の黒人奴隷やインディオ、さらには貧しい白人などをポルトガル人の支配下からさらって、キロンボに連れてきたとされる。その際に民家やサトウキビ農園に火を放って逃げるなど、農園主に恐れられる存在になっていった。
こういった状況の中で1603年、バルトロメウ・ベゼーラ指揮官のもとで、政府はパルマーレスを解体するための最初の遠征軍を組織したが、その難しさは予想を遥かに超えるものだった。
黒人たちは森の中での戦術に長けていた。火縄銃など重い武器をかついで山に入る兵士たちは道に迷い、疲れたところを不意打ちされた。ふもとのファゼンダに出入りしていたパルマーレスの黒人たちは、そういった政府の動きもいち早く察知し、事前に戦術を練っていたとされている。この後、政府軍との戦いは長く続くことになる。
1630年、ポルトガル植民者を脅かすようになったのは、ペルナンブッコ州を侵略するようになったオランダ人だった。ポルトガル人とオランダ人の闘争が激化し混乱が広がるすきに、ファゼンダから逃げ出す黒人奴隷が一層増えた。
オランダ軍とも激突
1637年、マウリシオ・デ・ナサウが州統領となり、オランダ人が完全に同州の支配権を握っていた。オランダ政府は黒人奴隷が少なくなったファゼンダをみては、砂糖生産を回復させるために、年間5千人の黒人奴隷をアフリカから連れて来た。その頃すでに2つの集落となり1万1千人が生活していたとされるパルマーレスを倒そうと、オランダ政府も遠征軍を送っているが、いずれも撃退されている。
オランダ人の過酷な搾取に耐えられなくなったペルナンブッコ州民はポルトガル王室の支援なしで反乱を起こし、9年間の闘争の末、1654年にオランダ人たちを追放した。
こうしてオランダ人が姿を消した後、再度ポルトガル人とパルマーレス間の争いが再燃することとなる。新たな州頭領となったフランシスコ・バレットが、翌年55年に送ったブラス・ダ・ロッシャ・カルドーゾ司令官率いる600人の遠征軍はパルマーレスを倒すことこそできなかったものの、数人の捕虜と1人の生まれたばかりの赤ん坊を捕えて帰還した。
英雄ズンビの誕生
その赤ん坊が、後世にわたって語り継がれることになる。少年はポルト・カルヴォに住んでいたアントニオ・メロ神父の元に引き渡された。奴隷として扱われることはなく、フランシスコと名付けられ、宗教の教義やポルトガル語、ラテン語の英才教育を受けて育てられた。
メロ神父は、フランシスコについて「黒人では珍しく、白人にも稀にみる才能を持ち合わせている。10歳にして十分なポルトガル語とラテン語を身に付けていた」と記している。
ミサを手伝いながら神父の愛情を受けて育てられたフランシスコだったが、次第に、ファゼンダに見る自分と同じ肌の色をした労働者たちが白人に苦しめられる姿に胸を痛めるようになっていった。同時に家族が住むとされるパルマーレスへと思いを馳せていた。1670年のある夜、15歳だったフランシスコは突然にパルマーレスへと逃げ出した。フランシスコを歓迎したパルマーレスの住人は、彼のことをズンビと呼んだ。
ガンガ・ズンバ指揮下で
その頃、パルマーレスの中心マカコでは、ガンガ・ズンバと呼ばれる同地生まれのリーダーが各集落をまとめ上げていた。
ブラジル人たちの文化を良く理解していたズンビは、白人の攻撃に対する戦略を立てる上でその能力を発揮した。1672年、ジャコメ・ベゼーハ司令官が3部隊を引き連れ3方向からパルマーレスを攻撃した際、ズンバの指揮下でズンビは同志兵士を効率良く動かして遠征軍を撃退することに成功した。
1675年に300人の遠征軍との戦いで45人が捕虜として連れて行かれ怒り狂ったパルマーレスは、同州南部の全ての村ポルト・カルヴォ、アラゴアス、イポジュッカ、サンミゲル、セリニャエンを襲い、サトウキビ農園や民家に火を放った。
ポルトガル人の攻撃にも屈しなかったパルマーレスだが、フェルナン・カリーリョの軍隊によって混乱がもたらされることになった。ガンガ・ズンバの母親を捕える目的に出発したその部隊にはさらなる遠征軍が加わり、56人を捕えたほか、各集落のリーダーを捕虜として連れ帰った。
それでもパルマーレスが滅んでいないことを悟った政府は、ガンガ・ズンバに降伏するよう伝えるようにと2人の捕虜を解放する。それを受けて、1678年6月18日、ガンガ・ズンバは降伏を受け入れようと使節団を派遣している。
しかし、こういったガンガ・ズンバの方針に賛成できなかったのは、白人社会に精通していたズンビだった。この時期に、パルマーレスの中では降伏に賛成する者と反対する者との間で対立が生じ始めていた。
分裂する共同体
11月5日、この和平交渉を成立させようとガンガ・ズンバ自身もレシフェへと出向いている。ペドロ・デ・アルメイダ行政官が提案した契約は、パルマーレスで生まれた全ての者に自由を与える、耕作用の土地が供給される、ポルトガル人との商業活動が許可されるという3点だった。
この契約内容は、アフリカから連れて来られていたパルマーレスの住民のほとんどが奴隷に逆戻りすることを意味しており、政府に委譲されたクカウーの地に移ったガンガ・ズンバ側のグループと、ズンビ側とでパルマーレスの住民は2つに割れていた。
クカウーに入った黒人たちも次第に再度ポルトガル人に奴隷として捕えられるようになっており、一方、パルマーレスでは自由の維持は抵抗を続けることだと確信していたズンビに大きな支持が集まっていった。
1680年にガンガ・ズンバが毒殺され、その後25歳のズンビがパルマーレスの指揮者となる。ズンビはポルトガル政府からの交渉を一切受け入れなかった。この間には、ポルトガル王直接からズンビ宛てに休戦を申し入れる文書も送られている。
強靭な司令官ドミンゴス・ジョルジ・ヴェーリョが新たな遠征軍を組織したのは、続くパルマーレスからの街の侵略に加え、伝染病、旱魃によって街が衰退している時期だった。
9千人の軍隊と攻防
何度か遠征を試みた後、1694年1月の初め、9千人の大軍を揃えてパルマーレスに向けて侵攻した。大砲を用いた軍隊は、数日かけて防壁の外にも仕掛けられた多くの罠をも突破し、パルマーレスの中心地マカコに侵入し、黒人たちの抵抗も虚しく残虐が行われた。
ケガを負いながらも何とか逃げ延びたズンビだったが、信頼していた一部隊のリーダー、アントーニオ・ソアレスの裏切りでポルトガル軍に居場所を突き止められ、捕えられた。翌年1695年11月20日、ズンビは処刑され、その首は何年間もの間、街中にさらされていたと伝えられている。
ズンビは、黒人の自由とアフリカ文化を守り抜いた歴史上の英雄として、今日まで語り継がれており、11月20日は「黒人の意識向上の日」として祝われている。