あっという間の半世紀=55年9月のあめりか丸=初の同船会に70人集う=養蚕移民、最初のコチア青年も


日系社会ニュース

ニッケイ新聞 2010年10月7日付け

 1955年9月15日サントス着港の移民船「あめりか丸」の同船者会が9月18日、リベルダーデのレストラン泰山で開かれた。家族移民36家族と第一回のコチア青年109人など約350人を乗せた同船。集いが開かれるのは渡伯55年で初めてのことだ。当日は各地から約70人が訪れ、なつかしい人達と話をはずませ、ブラジルで過ぎた半世紀あまりの時間をかみしめていた。

 山田貢さん(75、鹿児島)ら一次一回のコチア青年が中心となって企画された集い。山田さんは開会のあいさつで「半信半疑で始めたが、たくさんの人が来てくれた。主催者として心から礼を言いたい」と感謝した。
 「本当になつかしい」と喜ぶのは、一家6人で移住、姉弟らと出席した北原民江さん(67、山口)。最初のコチア青年が乗った船ということもあって、神戸の出港時には楽団の演奏が移住者たちを送り出したそうだ。
 同船には、サンパウロ州モコカ近郊のアスパーゼ植民地に入植した養蚕移民の第二陣13家族も乗っていた。この日は今もモコカに住む水野進さん(74、福島)や小池美次さん(77、長野)など11人のほか、サンパウロ市方面に住む人達も集い、持参した往時の写真を見て昔話に花を咲かせた。
 戦後初めてのサンパウロ州への日本人計画移民だった養蚕移民。アスパーゼには最大66家族が暮らしたが、当初の目的だった桑が育たず、ほとんどが転出した。
 家長世代で唯一出席したのが、立石松男さん(96、福岡、サンパウロ市在住)。一家8人で一年を過ごしたアスパーゼでの生活を振り返り、「親連中は皆亡くなってしまったね」と話す。5年ほど前、90歳の誕生日を記念して初めて同地を再訪したという。
 当日は、かつての子供世代に自己紹介されて驚いた様子。「初めての同船者会でうれしい。何としても行かなきゃと思って来ました」と笑顔を浮かべた。
 第一回のコチア青年109人のうち、この日は8人が夫人らと訪れた。
 55年ぶりの再会というのは、高橋好美さん(74、岐阜)と高橋隆さん(73、山形)。
 「(一次一回は)後輩のために働けといわれましたね」。配耕先のイグアッペを1年半で出た高橋好美さん。「組合泣かせで」と笑う。その後アナポリスを経てサンパウロ市で家具販売を営んだ。「当時だからできたこと。言葉半分でも、押しでやってきた。色々見られて良かったです」
 一方の高橋隆さんは、ブラガンサのパトロンの所を出た後、馬で国内を放浪したという経歴の持ち主。「ドクメント一つでね。独立の資金も無かったし」。ミナス、バイーア、パラナなどを一年かけて回り、パラナ州ウムアラマで旅装を解いた。現在も同地で商売を営む。
 夫人の俊子さんと出席した本多睦夫さん(78、大分)は、カストロでバタタ栽培に従事し、現在はクリチーバ在住。「一人で来て、今では家族が21人になった。幸せです」
 米川隆行さん(75、熊本)が青年移住を決めた時は、「皆反対して、親が通知を隠していましたよ」という。現在はピエダーデで柿栽培に携わる。「畑に出るから元気なんですよ」と笑う。
 ブラジリアから訪れた荒木滋高さん(78、三重)。契約農年を終え、遷都前の首都へ移転して長年野菜栽培に携わった。「当時は西部劇の風景みたい。埃ばかりで、道も未舗装でしたよ」。「55年はあっという間。僕らはこの年でまだ元気でいられる。幸せです」と話した。
 食事が一段落すると、出席者の数人がマイクを取った。
 コチア青年一次一回の黒木慧さん(75、宮崎)は、「今日ここにいる人の顔を一度に覚えるのは無理。何度か重ねたら網膜に焼きつくのでは」と話し、次回開催に期待を表す。
 北原さんの弟、上田博臣さん(65)は、「小さい時は『何でこんな所へ』と親父を恨んだけれど、親のおかげでブラジルで活躍の場を与えてもらい、来て良かったと思う。親に感謝しないと」と語った。
 アスパーゼを経て、現在はイトビ市でミーリョ栽培や養豚業などを営む佐元陸展さん(75、山口)。93年にはサンパウロ州でミーリョの生産量一位を記録した。「悲しいこともたくさんあった。言葉では言えないですね」と過ぎた55年を振り返り、「皆の元気な顔が見られてうれしかった」と話していた。