ボリビアで生き抜いて~第34回県連ふるさと巡り~《3》=オキナワ=焼畑、綿から「小麦の都」に=西・日語教える日ボ学校

ニッケイ新聞 2010年10月22日付け

 会館で休息後、一行は隣接する「コロニア沖縄農牧総合協同組合(CAICO)」を訪れ、工場長の親川ウーゴさん(47)から説明を受けた。
 焼畑による陸稲、トウモロコシ栽培から始まった移住地の農業。第一移住地が満植になった後は、59年から第二、62年から第三移住地へ入植。全体の面積は約5万ヘクタールに上る。
 入植者らは、琉球政府の時代は米国、JICA移管後は日本政府からの援助も受けながら、移住地内の道路や施設の整備を進めていった。
 雨が降ればサンタクルスまで数日かかったという悪路、水害や旱魃と戦いながら営農を続け、60年代から綿作栽培へ。71年に別々だった組合を一つにして法人登録し、繰綿工場も建設されたが、国際価格の暴落で大きな損害を蒙った。しかし、その後試験的に植えた大豆が伸び、安定軌道に。中村監事が会長の時代には、入植者を悩ませたグランデ川に80キロの堤防も建設した。
 現在の組合員は135人。入植者は初めに50ヘクタールの土地を無償で受けたが、現在では平均200ヘクタールに広がった。組合員が生産物を持ち込み、組合が燃料や肥料などを担当する。
 今では主作の大豆は年6万5千トン、小麦は年3万2千トンを生産し、大豆は7割をペルーに輸出する。国内向けの小麦はその生産が評価され、02年に政府はオキナワを「小麦の都」と制定。毎年行なわれる「小麦の日」行事にはモラレス大統領も訪れたそうだ。
 「来年2月にはパスタ工場が完成する予定です」、オキナワで生まれ、サンパウロ州で農業を学んだという親川さんは報告する。一世が苦闘の末に掴んだ安定は今、次の世代に引き継がれつつある。
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 移住地の教育を受け持つオキナワ第一日ボ学校。80年代の超インフレで公立校の授業ができなくなったことから、地域で87年に創立。同国文部省と提携して午前に同国の正課、午後に日本語を第二外国語として教える珍しい存在の学校だ。8年生までの生徒は70人で、うち10人ほどが非日系の子弟。
 日語部の安里幸子校長(49、埼玉)の案内で一行は校舎を見学。授業中に教室を覗き込む人達に子供たちはびっくりしながらも笑顔を向けてくる。「写真を撮ってもいいですか?」、日本語で聞くと「はい」と元気な返事。
 沖縄県は86年から同地への教師派遣を続けている。25代目、4月に着任したという大江隆喜さん(39)は、「素朴で、地域全体が昔の沖縄のよう」と話す。
 生徒はすでに3世の世代。日本や沖縄に対して「小さい頃から触れているから、当たり前に思っているでしょうね」と安里校長。「二世の親達は子供に自分達の苦労をさせたくないと家庭でスペイン語を使うので、日本語のレベルは下がっていますが、最近は日本語の大切さも認識されるようになってきています」と語った。
 授業が終わり、子供たちが運動場で遊び始めた。ふるさと巡り参加者の中には、昔取った杵柄とばかり、子供たちに鉄棒の蹴上がりを披露する人も。
 診療所を見学した後、一行は交流会を前に会館敷地内の資料館へ。一次移民の渡航前からの写真、開拓や農作業で使った道具などが展示されている。手持ちの播種機や馬の鞍を指して「私たちも使いましたよ」と参加者の婦人が懐かしそうに話す。壁に張られた手書きの年表が、かえって開拓の生々しさを伝えているように見えた。
 写真を撮っていると、一人の男性が話しかけてきた。第一次でうるま植民地へ入った比嘉敬光さん(72)だった。(つづく、松田正生記者)

写真=農協で記念撮影する一行/オキナワ第一日ボ学校の子供たち