リンゴ栽培に賭けて=細井健志さん


特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 細井さんの移住の動機は、中学2年の時に母から聞いたブラジルで成功した遠縁の人の成功談に感じ入り、ブラジルへのあこがれの芽が生まれた時に始まる。(以下はご本人の言葉)

 農業経験のない私は、京都府立桂高校農業科に入学した。ブラジル移住の準備である。
 同校卒業と同時に京都府移民課を訪ね、単身なのでコチア青年移住に応募した。保証人は伯父。しかし、親の同意書が必要だった。親は「頑張ってやれ」と同意してくれた。
 1962年9月28日に神戸港を出発。母が700ドルを渡してくれた(小さな田畑を売ってつくったときく)。
 52日間の航海を経てブラジルに着いた。パトロンは川上皓さん。ピエダーデでバタタ栽培をしている壮年の人である。ランプとドラム缶風呂の生活が始まった。パトロン夫婦はとても親切だった。
 1969年5月24日に静子と結婚。その時パトロンは300人程の人を呼んでくれ、私達を感激させた。
 同年9月に独立。このときパトロンは1アルケールのバタタを植えてくれ、さらに、肥料、農薬、トラトールと馬1頭をくれた。
 パトロンから教わっていたので、自分で住宅と倉庫をつくって順調なひとり立ちだった。古ジープを買って妻と喜び合った。
 この頃、脱借地を目指して土地探しを始めていたが、義父からサンタカタリーナでのリンゴ栽培計画に誘われた。パトロンに相談したら、「頑張ってやれ」と、賛成してくれた。
 そうして、故西森多光さん、故清水滝次郎さん(義父)、清水秀雄さん(義兄)、平上広康さん、文雄さん兄弟と私、合わせて6人の同士が集まり、「リンゴ団地」つくり相談が始まり、その構想をコチア産組に提案した。
 組合では農業技師を派遣し、我々と土地探しを始めた。
 当時、海外技術協力団(後の国際技術協力事業団、JICA)派遣の後沢憲志博士(リンゴ栽培の権威)が土地探しから栽培技術を根気良く指導してくれ、我々素人の目を開けさせた。
 「サンジョアキン」を推薦され、1974年、コチア産組の3農業技師と6人が現地を視察した。
 標高1400メートル、ブラジルで唯一雪が降る所である。土地購入のため、州政府の農地融資、州銀から営農融資を受けた。
 同年8月、ロッテ抽選。ブラジルで初めて自分の土地を得ての喜びは大きかった。11月中旬、最初に集団入植し、初年度に1500本。次年度は6500本の苗を植え付け、75~77年にかけて、4つの団地の14ロッテ(560ヘクタール)に合計14家族が入植した。
 75年以降、同地方の目玉産業の林業が急速に衰退。それに代わり、リンゴ町として有名になってきた。リンゴ団地は順調に発展したが、94年、コチア産業組合が崩壊するという事態になり、生産者に大きなショックを与えた。
 しかし、生産者の体質は強く、サンジョアキン農業組合を創立して諸設備を整備し、生産から販売まで一貫しての機能を持つ強力な組織を持った。
 わずか6人で始めたリンゴ栽培の構想は、コチア産業組合、ブラジル連邦政府、サンタカタリーナ州政府の協力と日本からの技術援助によって、大きく結果した。
 自分達の幸福を求め定住した細井さんは、この国の地域社会発展にリンゴを通じて貢献した事を自負している。コチア青年唯一のリンゴつくりとして。