コラム 樹海

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 「新聞崩壊王国」の米国では、この10年で記者6万人が解雇で去り、仏の名門「ル・モンド」までが、インターネットに敗れ、身売りの話が表沙汰になっている。発行部数が世界一を誇る「新聞天国」の日本も例外ではない。全国紙の発行部数の公称は、読売が1000万部近くだし朝日、毎日と続くけれども、週刊誌の報道だと「押し紙」というのがあり、実数とかけ離れていると指摘する▼このように活字と紙による新聞の経営は厳しい。邦字紙の読者減少も急速に進んでおり、今や危急存亡の秋を迎えている。戦後コロニアの報道で活躍したサ紙・パ紙・日伯の3紙も60―70年代半ばの頃が最盛期だったが、日伯新聞は苦しく、茨の道を歩むような艱難に見舞われていた。これは、副社長・中林昌夫氏の手記にもある。資金繰りに詰まると南米銀行に駆け込み故・橘富士雄社長に泣き付き融資を受け、飛ぶが如くに帰社する▼日伯新聞は竹内秀一・初代社長の時にも豊かとは申し難く、昌夫氏から「印刷に苦労した」の話を耳にしたし、木製の活字を頂戴したのも懐かしい。編集から原稿が下りてくると鉛の活字がないときには、文選工らの中に印鑑を彫るみたいに見事な木製の活字を作る名人がいたのだそうな。副社長は戦前にも「日本新聞」で働き活字に親しんだ新聞人なのである▼2ヵ月ほど前にサン・ジョアキン街でばったり出会ったが、かなり痩せていたので「どこか悪いのですか」と尋ねると「もう歳だからな」と微苦笑していたが、まさかーこんなに早く草葉の陰へと旅立つとはー。中林昌夫氏。享年87。     合掌。(遯)