ボリビアで生き抜いて~第34回県連ふるさと巡り~《4》=日本人でもアメリカ人でもなかった=入植56年、いま「住みやすい」

ニッケイ新聞 2010年10月26日付け

 16歳でうるま植民地へ入った比嘉さん。「とにかくひもじかった」と入植当時を思い出す。「再訪した人に『先見の明があった』と言われたけど、金がなくて出られなかったんですよ」と笑う。
 父安栄さんの「団体から出てはいけない」という言葉を振り返り、「植民地は自分で開拓するもの。こんなものと思ってやってきた」。今年で56年。「今40代50代の人達が頑張っている。やってきた甲斐があった。誇りに思います」と笑顔を浮かべた。
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 会館で正午過ぎに始まった交流会には、同会役員や婦人、若者なども参加。月2回のデイサービスも日付を変更し、高齢の人達など100人近くが集まった。
 中村監事は一行を歓迎し、「初期の動揺の中で、残った人はウチナーンチュの開拓魂をもって現在まで移住地を守り、今安定の時期を迎えている。JICAやボリビア国の支援もいただき、現在のオキナワが作り上げられた」と挨拶、今後の交流に期待を表した。与儀会長もこの日の交流を喜び、「これからも南米日系人同士の交流を深めていきたい」と述べた。
 元会長の山城保徳さん(80)が乾杯の音頭を取り、一同は婦人会心づくしの料理を味わいながら歓談した。
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 「日本人でもアメリカ人でもなかった」、一次移民で同地農協の基礎作りに尽力した山城さんは入植当時を振り返る。
 移住者が持っていたのは、アメリカ高等弁務官の署名が入った琉球政府発行のパスポート。入植までのあちこちで止められたそうだ。
 「川底より低くて、12月の雨季には洪水で陸の孤島になった」といううるま耕地。「うるま病」と呼ばれた熱病は「3日目がヤマ」。42度前後の高熱が続き、3日目で亡くなる。4日目まで持ちこたえれば治ったという。
 2年で2度の移転。「皆落胆し、解散間際だった。支援もなく、皆をまとめるのに苦労しました」。わずか60ドルに制限された携行金も底をつき、現在の地に着いたときは「無国籍で、難民同様だった」。
 58年に山城さんが精米機購入のためブラジルを訪れた時も、空港で一日足止めされ、米国大使館と交渉して漸く入国できたという。その精米機が同地組合の出発点だ。01年には日本政府の叙勲を受けた。
 同移住地には現在、二世三世を含み約890人が暮らす。一、二次入植の143戸のうち、残ったのは10戸。山城さんは「よくここまで生き延びてきた」と語った。
 与古田さんが三線、ベレンのシニア形山千明さんが沖縄の打楽器三板を演奏し、会場にカチャーシーの踊りが広がる。地元婦人会の体操や、全員での炭坑節の後、恒例の「ふるさと」を合唱した。
 62年に入植以来第三で暮らしてきた新城チエさん(87)。「沖縄でも同じことをやっていたから、大変とは思いませんでしたよ」。今はゲートボールを楽しむ。ブラジルに住む子供もいるが、「ここは住みやすい。とてもいい所ですよ」と和やかに話した。
 第一移住地に入る道路には、「めんそーれ(ようこそ)沖縄ヘ」と書かれた門が立つ。新天地に渡ったウチナーンチュたちは、ここボリビアにもう一つの故郷を作り上げた。(つづく、松田正生記者)

写真=交流会でともにカチャーシーを踊るブラジル、オキナワの人達/一次移民の山城さんと中村監事