博物研究会60周年祝う=記念プロジェクト2つ=創立者橋本氏振り返る=「先生は生涯志貫いた」

ニッケイ新聞 2010年10月27日付け

 サンパウロ博物研究会(林田瞳会長)の創立60周年式典が17日午前、サンパウロ市イタケーラ区の本部で行なわれ、約40人の会員らが創立者である橋本梧郎氏(静岡県、1913~2008年)の偉業を振り返り、節目を祝った。セッチ・ケーダスの植物に関する橋本氏の遺稿の出版を来年上半期に予定しているのに加え、昨年カルモ公園に海岸山脈の原生種の苗5千本を植えたプロジェクトを報告し、伝統のキャンプなどの活動をたゆまず続けていくことを誓った。

 林田会長は式典のあいさつで、「橋本先生が亡くなって3年が過ぎた。残していただいた貴重な資料を守り、活動を維持していかなくては」との強い決意を表明した。
 1971年から長年会長を務めていた越村建治さん(75、二世)は、同研究会の歴史を振り返り、「栗原自然科学研究所の植物担当者だった橋本先生が中心になって1950年4月に第1回植物研究キャンプを実施した。8月にリオの微生物国際学会に参加した東大教授を手伝っているうちに、研究会発足を思いついた」と説明した。
 司会の満生ジュリオさんは「勝ち負け抗争でコロニアがトラウマを抱えていた時代に、橋本先生は自然に目を向けることを教えてくれた」と語った。
 34年に単身渡伯してエメボイ実習場(M’Boy、現エンブー市)で学んだ橋本氏は戦前から植物採取をしており、96年の生涯で集めた約18万点の標本が同会館(97年建設)に収蔵されている。
 その間、54年頃から20年間はパラナ州グアイラ市に居住し、同地の植物を採取していた。後にセッチ・ケーダスにダムが建設され、自然環境が大きく変化した。今では採取不可能な貴重な標本も展示する博物館を同地に建設している。その資料を元に橋本氏は生前に原稿を執筆しており、それが来年前半に出版される予定になっている。
 「父(画家の故桧垣肇さん)が先生とよく山歩きをした」と懐かしむ桧垣静江さん。再出聖した橋本さんが住んでいたポツダム街の建物を世話し、「今の会館に引越しする時はカミニョン10台分の標本がありました」と思い出す。
 越村元会長は、日本移民百周年と博研創立60周年を記念して昨年、海岸山脈に原生する100種以上、計5千本の苗をカルモ公園に植えたプロジェクトを報告し、「一般市民に海岸山脈の自然環境の大切さを訴えるもの。何年かしたら素晴らしい場所になりますよ」と語った。
 妻に先立たれた橋本氏の最後の9年半を共に生活した佐舗ゆきさんと林田会長が、ケーキカットをし、会員らは和やかに歓談した。ゆきさんは「食事中に箸をもって空を見ているので、何か調子が悪いんですかと尋ねたら、『考え事をしているから黙っていないさい』と怒られました。頭の中は植物のことでいっぱいの人でした」と振り返った。
 父・行方健作さん(故人)が戦前から橋本氏と親しく付き合っていた小橋節子さんは、「先生が21歳で日本を出る時に書いた手紙を見せてもらったことがありますが、死ぬ直前と考え方が一緒。つまり日本を出るときに志したことを生涯かけて貫き通した人でした」と感慨深げに語った。