【特集 イタチーバ文協50周年】イタチーバ文協50周年祝う=前夜祭と記念式典盛大に=若者ら300人が会館埋め=踊りやプレート除幕

ニッケイ新聞 2010年10月29日付け

 イタチーバ日伯文化協会(門馬ジョルジ会長)は創立50周年を記念して16日に前夜祭、翌日に合同慰霊祭と記念式典を開催し、会員や関係者300人ほどが出席し、市関係者もふくめ、青年会や婦人会の大活躍により盛大な賑わいを見せた。30年後に開封される予定のタイムカプセルに、会員らは思い思いの品々をつめ、未来の子孫の姿に期待を膨らませた。

 半世紀分の感謝と日本文化紹介を目的に市と共催で行われた16日の前夜祭は、柔道部が豪快な模範演技を行うなどして会館は常時満員で市民との交流場となった。
 17日、同市教会でカトリック、仏式両方で行われた合同慰霊祭には門馬会長、会員他、ジョアン・ファトリ同市市長も出席した。
 午後から行われた式典でも同会会館は満員となり、門馬会長夫妻ほか、在聖総領事館の鎌倉由明領事、アウク・ダ・シルバ同市副市長、ジョゼ・ロベルト・フマチ前市長、50周年記念誌のポ語校正を務めた歴史家のデニス・ラファエル・ペレイラ氏らが登壇し、先亡者への黙祷、日伯両国歌の斉唱を行った。
 司会は日本語を岩野忠さん、ポ語を松本光夫さんが務めた。鎌倉領事が大部総領事の祝辞を代読、「日本文化普及、日系人の社会的活躍、地域の発展に大きく貢献し、同市のサンタ・カーザ病院への草の根資金協力には橋渡し役を果たしてくれた」と賞賛と感謝の思いを表した。
 除幕式では記念プレートに続いて、前々会長の佐坂勉氏が自分の肖像写真を、前会長である故・松本洋治氏の分を妻まり子さんとその子らが除幕をした。その後は歴代会長24人、創設会員7人、功労者8人、高齢者18人を表彰。鏡開きが行われ、乾杯と続いた。
 祝賀会ではカシア・エレナ市長婦人、田村美代子婦人会会長、門馬セシリア文協会長夫人、小島幸恵文協副会長、横飛エリーザ文協書記らがケーキカットを行い、青年部がYOSAKOIソーラン、婦人会が「ふれあい音頭」「ふるさと音頭」「チャチャチャ踊り」などを披露。舞台から降りて客席といっしょに盛り上がった。
 若者たちに期待を寄せている門馬会長は、「一度はつぶれた青年会だが復活して以降は活動が活発になっている」と笑顔で話すが、「活発な間に太鼓を始めさせてあげたい。でも資金的には難しい」との現状も話す。
 同部には現在20代前後の男女20人ほどが在籍し、今年初めて開催した日本食フェスタでは立案・企画・実行まで大半を自分たちで行った。祝賀会で披露したYOSAKOIソーランも、ビデオを見て皆で研究したという。

おめでとうございます=Jorge Monma Presidente=Uniao Cultural Nipo Brasileira de Itatiba-NIBRAIT

É uma honra e satisfação estar presidindo a União Cultural Nipo Brasileira de Itatiba-NIBRAIT e comemorar seus 50 anos de fundação no mesmo ano em que a cidade de Itatiba comemora seus 153 anos. 
Em 1908 chegaram ao porto de Santos, os primeiros 781 imigrantes a bordo do navio Kasato Maru,numa viagem de 52 dias no mar. 
No incio de 1909, segundo o livro “Mori no Yume” escrito pelo japonês Massao Daigo, publicado em 1971, 3 famílias vieram para Itatiba, mas não se fixaram na cidade. 
Segundo o registro nos livros de escrituração de sepultamento no cemitério municipal de Itatiba, os primeiros japoneses residiram no bairro Tapera Grande na década de 20. 
Em 1944, a família do Sr. Akio Yoshizato chegou em Itatiba. Eles pertenciam à provincia de Kumamoto e instalaram-se se na Fezenda Santo Rosa e trabalharam no cultivo de tomate. 
Em 1946, nasceu o primeiro nissei Itatibanse:Akiteru Yoshizato. 
Em 1958, surgiu a idéia de fundar o Nihonjin-kai, pela iniciativa dos Senhores Komi Tamura, Takema Tamura, Koitiro Tamura e Saitiro Matsushita. 
No dia 11/10/1960, realizou-se a Assembléia Geral Ordinária, na assembléia determinou-se a mudança do nome Nihonjin-kai de Itatiba para União Culturai Nipo-Brasileira de Itatiba. 
Hoje a União Cultural Nipo-Brasileira de Itatiba- NIBRAIT conta com 74 associados, com a escola de língua japonesa, e os departamentos de Karaokê, Seinenbu, Gateball, Judô e Fujinkai. 
Apesar de várias mudanças ao longo das gerações, lutamos para preservar os costumes e a tradição japonesa. 
Para a comemoração dos 50 anos de fundação, estamos editando um livro muito especial, que conta a história de cada associado, além da história do Japão, da imigração, da cidade de Itatiba e da NIBRAIT. 
O lançamento do livro está programado para Janeiro de 2011 e queremos registrar nele esta cerimônia e a festa. 
Agradeço as comissões organizadoras, principalmente a comissão de pesquisa que não mediu esforços para obter informações para a edição deste livro. 
Agradeço aos artistas que irão se apresentar no dia de hoje, abrilhantando mais ainda a nossa festa. 
Agradeço a Prefeitura do Municipio de Itatiba, a Secretaria da Cultura, Esportes e Turismo e a Câmara dos Vereadores pelo apoio e incentivo a cultura nipo-brasileira em Itatiba. 
Parabéns a Cidade de Itatiba pelos 153 anos! 
Parabéns à NIBRAIT! 
みなさん、おめでとうございます 
Muito Obrigado.

開封は80周年式典で=未来へタイムカプセル投函

 「変わり行く日系社会においてイタチーバ日会、日本語学校にも大きな変化があるに違いない。新しい日会の歴史が流れているでしょう」。壇上で司会の岩野さんはそう切り出し、「私たちの先輩が築き上げたこの日会を、30年後も3世、4世さらには5世が守り盛り上げていることを期待する」と述べた後、タイムカプセルへ思い思いの品を投函するよう呼びかけた。
 80周年式典で開封が行われる計画のカプセルには、祝賀会中多くの人が記念の品を入れ、式典終了間際には満杯になっていた。
 将来の自分への手紙を書いた青年や、役員の森広秀夫さん(81、岡山)は「楽しかった人生よ」と書いた手紙を入れた。「開けるときには110歳位か。頑張らないと」と笑顔を見せた。

焼きそばで地域盛り上げ=婦人会は縁の下の力持ち

 同地婦人会は年に6回焼きそば会を開催する働き者だ。ブラジル人を中心に毎回1200食を売り切る。常連も多く、一人で5~6個を持って帰る人までいるという。
 文協の一部ではなく、独立して運営されている婦人会。現在は27人の会員がおり、その数は増加中だという。
 年6回のうち2回分を文協のカラオケ大会や運動会の資金に寄付し、3回分を婦人会と文協の青年部、日本語学校、柔道部、ゲートボール部で分ける。
 つまり、婦人会が全額貰うのは1回だけ。それらの資金で同会の親睦旅行費、同市の孤児施設、07年のサンタカタリーナ州の水害被害への寄付も捻出した。50年の文協会の歩みも婦人会の存在をなしには語れない。
 創立時から在籍し、20年以上会長を務めるのが田村美代子さん(80、高知)だ。その功績が認められ、今回功労者として表彰された。「恥ずかしいばかり。この嬉しさもこれまでの皆の協力があってこそ」と田村さんは感謝の思いを語り、「今後も文協の部ではなく、会として存続を維持していきたい」と力を込めた。

イタチーバ文協の軌跡

 第2次大戦前後に同地への邦人入植が開始し、60年代が入植最盛期だった。その理由は、バタタ作りに適した地質であると同時に、コチア・南伯両産業組合が時を同じくして地方出張所を開所したからといわれる。
 58年ごろ創立の機運が高まり、田村家の耕実、武馬、耕一郎3氏や松下佐一郎氏が発起人となって同年5月12日、イタチーバ日本人会の名称で発足した。当事の会員数は39家族だった。
 60年10月にイタチーバ日伯文化協会に名称変更し、正式に公共団体として登録した。66年には会員待望の会館が落成。建設費は当時の金額で3万3千コント。79年には創立20周年祭を開催している。
 89年には高知県土佐市とイタチーバ市が姉妹都市締結、93年に橋本大二郎高知県知事夫妻、土佐市市長一行の使節団を受け入れている。