サントアンドレー=新年会と表彰祝賀式盛大に=金城徹氏に大十字賞=「僕は2度命拾いした」

ニッケイ新聞 2011年1月18日付け

 沖縄県人会サントアンドレー支部(宮城あきら支部長)が主催する新年祝賀会および金城徹氏(87、沖縄県国頭村)に対するグランクルス表彰授与祝賀会が9日に同市のうるま会館で行われ、150人以上が詰めかけて盛大に祝った。「僕は2度命拾いした」という強運の持ち主で、県人会活動に長年献身的な貢献を続ける金城氏に対し、ブラジル教育統合協会(救仁郷靖憲会長)からグランクルス(大十字)賞が授与され、会場には慶祝のためにたくさんの同郷人があふれた。

 「私の乗った汽車があと4時間早く広島市付近を通過していれば、原爆にやられていた」。1941年に海軍航空隊に志願し、鹿児島県の特攻隊基地・串良に配属された。45年、滑走路に航空機を並べて給油作業中に敵機の爆撃を受け、爆風に投げ出されて重傷を負い、新潟の病院で加療した帰りに偶然通りかかった広島だった。
 「原爆のせいで汽車が停まり、線路を25キロも歩いて市内を横断し、なんとか汽車が動いている次の駅までたどり着き、串良の原隊に復帰した」と振り返る。
 基地に到着早々、入院している間に故郷沖縄が激戦地と化し、「明日にも鹿児島に上陸するかもしれない」と切迫した状況になっていた。早々に特攻隊として出撃することが決定され、覚悟を決めていたときに青天の霹靂、戦争が終わったことを知らされた。「あと10日間、終戦が遅くなっていたら僕は出撃していた」という。
 戦争中に家畜が全滅した沖縄で、家畜商を営んで豚や牛を売りさばいた。どうやって仕入れたか。「小型ボートで沖永良部島、与論島、徳之島から持ってくるんですよ。もちろん米軍に隠れて。捕まったら没収です。怖いからいっぺんに少しずつしか運べない。でも県人の生活に家畜は欠かせない。命がけで運びました」と胸を張る。
 やがて朝鮮戦争が勃発し、母親が「また戦争に巻き込まれるのでは」と恐怖感に襲われ、親戚一同もブラジルに移住する流れになり、「あんただけ残ってどうする?」と母親に勧められ、渡伯を決意した。
 59年に渡伯、同郷人の多いジュキア線イタリリーで製麺家内工場開設、バナナ自営卸業、バナナ生産組合設立などと活躍し、71年にサントアンドレーに移転、82年からレストラン経営を始める。その間、県人会支部・本部の役員を歴任し、ジアデマの沖縄文化センター建設に土地の一部を提供するなど多大な貢献をし、今回のグランクルス賞につながった。

盛り上がった新年会

 当日の新年会では、老壮会の川平賀永会長が「昨年の節目の行事が盛大にできてよかった」と振り返り、宮城支部長も「支部創立55周年、婦人会40周年、老人会20周年に溢れんばかりの人が集まって喜びを分かち合えた」と微笑を浮かべつつも、実行委員長として式典成功に尽力した保久原正幸さんが昨年末に急死したことを「新年も頑張ろうと誓い合ったばかりだった」と悼んだ。
 山城勇相談役が金城氏の経歴を紹介した後、厳かに救仁郷会長から授与された。県人会本部からは与那嶺真次副会長が金城氏の功績を称え、「10月のウチナーンチュ大会に向けて準備を急ごう」と呼びかけた。
 同郷二世の大田慶子ヨランダ次期連邦下議(2月に就任)も「この地区から1万7千票ももらって本当にありがたい。最初の日系女性下議、しかもウチナーンチュであることを誇りに思う」と挨拶し、最後に「にへーでびる」(ありがとう)と締め括った。
 仲村百合子(69、沖縄県北谷)婦人会会長は「今年は金城さんの受賞もあって特別盛り上がっている」と喜んだ。宮里喜美子さん(69、同糸満)は「こんなに盛大なのは今年初めて。どんどんうるま会の会員が増えて嬉しい」、金城徹さんの実妹・玉城安子さん(73、同国頭村)は「ついこの間まで受賞を知らなかった。本当に嬉しいです」と満面に笑みを浮かべた。