65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《2》=「日の丸事件」の真相は=誰の言葉が正しいのか?

ニッケイ新聞 2011年2月5日付け

 1946年正月、パウリスタ延長線ツッパン郊外の植民地で「日の丸事件」が起きた。後に続くテロ事件の予兆といえるものだった。
 『百年の水流』(外山脩、06年)によれば、纐纈鎮夫宅で日の丸を掲揚して正月を祝っているとの密告を受けた警察が、家宅捜索に行って入植者を暴行した上で連行、車代と称して600クルゼイロ巻き上げた。さらに警察官エドゥムンドが押収した日の丸で革長靴の泥を拭っているのを日本人が目撃したという事件だ(345頁)。
 これが『八十年史』には、「1946年1月7日、ツパン地区の一集団地で『戦勝祝賀会』があり、日の丸を掲揚していたところ警察が見つけこれを押収、この日の丸でトッパン署員が靴を拭ったという噂が伝わり、国辱問題だと憤慨した日高トクイチ、北村シンペイら(後に臣聯のテロの一員として野村、脇山暗殺に参加した)が決死隊として警察署に殴り込みをかけた事件を『日の丸事件』という」(172頁)と説明されている。
 日高本人によれば、「隠れて日本語の夜学の授業を受けていた時、知り合いの魚屋が駆け込んできて『警官が日の丸で靴を拭っているのを見た』というので、本当かどうか確かめに行かねばとなり、一緒に授業をうけていたものが行っただけ。そしたら日本人が不穏な動きをしていると、いきなり全員留置所にぶち込まれた」と思い出す。
 1週間か10日間ほどツッパン署の留置所、その後約1週間はマリリア本署に移されて釈放されたという。ところがその間、肝心の目撃者の魚屋が突然「見ていない」と証言を翻したため、7人の憤りは宙に浮いてしまった。何らかの圧力がかかったのかもしれない。
 『百年の水流』では「この事件に関する記録書類からは、国旗問題は削除された、という。当時はブラジル社会でも、国旗は『犯すべからざるモノ』と認識されており、もし、靴の泥を拭ったなどという事実が公になれば大問題に発展すると、警察が危惧したため、といわれる」(345頁)と説明する。
 日高は後に、定年退職した当時のブラジル人警察署関係者に、この事件の書類の中に国旗問題に関する記述があるかと尋ねたことがある。彼は「今だから言えることだがね、たとえそんなことがあったとしても書類に残すわけないじゃないか」と一笑に付されたという。
 ブラジル人有名ジャーナリスト、フェルナンド・モライスはベストセラー『コラソンイス・スージョス』の冒頭のエピソードとしてこれを取り上げた。まるで黒澤映画にかぶせるように「7人のサムライ」と表現し、表紙の写真にまで使った。「デレガシアの中で撮られたらしいが全然記憶にない」と日高は首をかしげる。
 同書ではまるで見てきたかのように臨場感あふれるタッチで、「その中の最年少だった日高は刀を抜いて一撃を食らわすべく突進して来た。兵士たちは5人がかりで取り押さえ、武装解除した」(20頁)などといかにも大捕り物であったかのように脚色している。
 モライスは日高本人にも取材した。だが日高は「その時、僕は手に日本語の勉強で使っていた雑記帳を持っていただけ。刀なんて持っていない。面白おかしくしたかったんでしょ。確かにメンバーの一人が脇差を持っていたが、それも拘留されて身体検査された時に知った。あの本はその部分まで読んでもう投げてしまった」と証言する。
 「ただし、もし靴を拭った警察官がその事実を認めていたら、その時は何が起きたかは僕にも分からない。でも警察官は『今いない』といわれた」と真剣な表情で付け加えた。
 一体、誰の言葉が正しいのか——。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)

写真=『コラソンイス・スージョス』の表紙(一番右が日高本人)