65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《7》=〃急変〃した戦前の指導者=どの立場で暗殺されたか

ニッケイ新聞 2011年2月15日付け

 不思議なもので暗殺されたのは同じでも、どの立場で殺されたかによって事件としての意味が異なってくる。また1946年3月からの一連の勝ち負けテロ事件で狙われた人々は「負けた」と言ったから狙われたのではなく、「戦前は自分たちの指導者だと思っていたのに変節した」と思われて狙われたという部分が強い。
 日高徳一は、「我々は戦前の日伯新聞の編集長としての野村忠三郎を狙ったわけではない。彼がそうだったことすらよく知らなかったし、邦字紙を狙おうなんて考えたこともない。あくまでも日本人文教普及会(戦前の日本語教育の中心団体、以後、普及会)の事務局長として、日本精神の向上を訴えて地方を講演して回っていた彼が〃急変〃したのを糺そうとした」と繰り返した。
 このように従来の史書にあるテロ事件被害者の肩書きと、テロ実行者が認識する肩書きがズレている。例えば『八十年史』には「元駐アルゼンチン公使(=編注・大使)」(168頁)としての古谷重綱(ふるや・しげつな)が強調されているが、実行者にとっては「普及会の元会長の古谷」だった。脇山元大佐も普及会理事であり、臣道聯盟の前身たる興道社メンバーとして〃急変〃を問われた。
 宮腰千葉太(海興支店長)もそうだ。1938年、市毛孝三在聖総領事は二世学生に日本文化を理解させる目的で「龍土会」を始め、宮腰を指導者にすえて連続講演させた。「彼の思想は古神道を根底とした日本精神で、東京帝大在學中筧博士の古神道學の講義をきいて、これに敬服している。(中略)龍土会はかくして思想的には反動的な傾向を濃厚にした」(『四十年史』319頁)とあり、やはり思想的指導者でもあった。
 従来の史書では、被害者の肩書きの中でもより公共性、一般性の高いものを強調することで、いかにもマスコミや政府筋、ブラジル官憲にとっても大事件であったかのように記録されている。
 でも勝ち組の認識はもっと単純だった。戦前には大日本帝国の国威発揚を説いていたはずの指導者が、45年10月に各邦人集団地に配布された敗戦を説明した「終戦事情伝達趣意書」に率先して署名していた。その筆頭が脇山元大佐であり、地方ではそれを見て驚き裏切られたと感じ、その7人の署名者が最初の標的に選ばれた。日高は「署名した人を黙らせれば、みなの動揺が収まる」と考えたという。
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 それに加え、終戦直後、負け組系の人物による皇室への不敬、「負けたんだからもう日の丸はいらない」などの発言等があったと日高は尊敬する大人から嘆かれた。一番頭にきた話は、あるブラ拓移住地の認識派リーダーの妻が「勝ち組は日の丸、日の丸いうが、そんなもん、私のまたぐらに布を突っ込めば何枚でもできる」と言ったという噂話だった。国旗は日本の象徴であり、ツッパンの「日の丸事件」同様に犯すべからざる存在であった。真偽は確かめようはないが、勝ち負けの対立の背景にはそのような言説がまことしやかにあった。
 日高は「その当時、とても口にできんような不敬な話や日本を馬鹿にした話をしゃべり回っている人がいた。それを見て大人たちは『日本のためになんとかして治めにゃいかん』と悩んでいた。それを見て僕等は日本のために徹底的に尽さにゃいかんと思っていた。その当時はそれしか頭になかった」とふり返る。
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 勝ち負け抗争から65年経った今、当時とは事情が異なってきた。実行者の日高本人が「臣道聯盟」=「特行隊」ではないと証言している以上、「自分は勝ち組だった」「臣道聯盟の会員だった」と胸を張って証言して差し障りのない時代になったといえる。既成概念を超えて、より史実に近いコロニア観を持てる時代になってきた。
 戦後に立場の違いこそ生まれたが、元々は同じような人生観や感性を共有していた者同志だった。祖国を軸にして皆が懸命に生き、暗中模索した時代だった。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)