65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《8》=〃狂信者〃と言われて=ようやく来た雪解けの季節

ニッケイ新聞 2011年2月16日付け

 日高徳一は大義名分を大事にする。「僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳ないが、彼個人になんら恨みがあったわけではない」。大義名分は立場によって異なるし、それがあれば何をやっても許されるわけではない。だが単なる殺人事件でないことも確かだ。
 「運命の夜」の後すぐに自首し牢獄を経て〃島流し〃(アンシェッタ島)され2年7カ月を過ごした。そこを解放された時、官選弁護士から「使用した武器は出てこない、目撃者はいない状況では犯罪は成立しない。罪にならないから釈放だ」と言われ司法の有様にあっけに取られた。
 日高は「それは違う。人の家庭をグチャグチャにしたんだから、こんなことで釈放では大義名分が通らない」と言い張り、約30年の量刑を言い渡され、カランジルー刑務所に収監された。最後の2年はバウルーの受刑者向け農園で農作業をやり、計10年の刑期を終えた。「日本人が普通の生活をしていたらそれだけで模範囚ですから、どんどん刑期が短縮されちゃうんですよ」。
 家族は頻繁に見舞いにきていた。「オヤジは僕がやったことに対して何も言わなかった」。徳一が事件の実行犯だったことで、父や弟は警察や自警団から酷い目に遭わされていたという。迷惑をかけまいと何も言わずに出聖したから、家族は本当に知らなかった。
 それでも父は息子の一途な気持ちが痛いほど分ったに違いない。「良くやった」とも「なんてことをしてくれたんだ」とも言わず、まるで何事もなかったかのように、ただ黙って家族の一員として受け入れた。
 刑務所から出てきた頃、当時の邦字紙から「狂信者」「残党」などと書き立てられた。「やってないことまで書かれた。裁判に訴えたらどうだ」と家族は怒ったが、日高は「そんなことしても仕方ない。やったことはやったんだ。人がどう思おうがかまわん」と取り合わなかった。戦後の傷跡が癒えず、みながささくれ立っていた時代だった。
 58年頃からポンペイアで父が細々とやっていた自転車修理店を引継ぎ、68年にマリリアへ転居した。「働くったって資本もないし他になにも知らんですから」と笑う。「移民70周年、80周年の頃は僕もまだ心が解けていなかった。刑務所出て無一文から生活を始めて経済的にも本当に難しかった。いろいろな意味で余裕がなかった」と思い出す。
 日高は93年10月、宮崎県の第1回南米移住高齢者里帰り事業の一員として61年ぶりに郷里の土を踏んだ。40日間ほど滞在し、天岩戸、宮崎神宮、靖国神社、皇居など見て回った。「夢のようだった。日本が立派になったのに驚いた」。幼少で離れたとはいえ、命を懸けて尽したお国、夢にまで見た祖国だった。でも「数年で帰るつもりで来たブラジルだが、ここに骨を埋めるのが運命なんでしょうな」との気分になってきた。少しずつ自分の中で何かが変っていった。
 日高が最初にマスコミの取材を受けたのは2000年頃だった。イマージェンス・ド・ジャポンの奥原ジュン社長と大井セリア史料館館長(当時)に自分の体験をありのままにしゃべり、世の中に伝えることの大事さに気付いた。何度も取材される中で信頼関係が築かれ、徐々に心が解けていった。
 08年の前半、日系社会の歴史に関心を持つ共同通信の名波正晴リオ支局長(当時)は百周年に関係して、「後からどんなことを言っても弁解と取られる」と誰からの取材も頑なに拒んできた蒸野太郎に話を聞きたいと考えた。野村忠三郎殺害犯の一人だ。
 名波の意図に賛同した日高がまず一人で蒸野宅に向かった。7歳も年上の野武士然とした蒸野の差し向かいに座り、「わしらだけが言うたんじゃダメじゃ。わしらの先輩らが『狂信者』だと言われたままにしておいていいわけがない。蒸野さんからも記者さんに自分の想いを話してくれんか」と頼み込んだ。
 ただでさえ怖い蒸野のさらに真剣さを増した表情を見て、日高は「叩き出されるのを覚悟した」と述懐する。じーっと目を瞑って考え込み数十分にも思える沈黙の後で、蒸野は「会おう」とだけ答えた。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)