第2回=モコカ=幻の養蚕村アスパーゼ=桑が育たず植民地瓦解

ニッケイ新聞 2011年4月19日付け

 県連故郷巡り一行は1日目、3月26日午後4時に〃幻の養蚕村〃アスパーゼ植民地(ASPASE、パウリスタ養蚕協会=Associacao Paulista de Cericultura)のあるモコカ市(人口約9万人)を訪ねた。ミナスとの州境まで車でわずか5分、モコカ市セントロからアスパーゼまで12キロある。
 説明のために一行のバスに乗り込んだ南カズミさん(二世、68、リンス生れ)は、父・常男さんが同植民地草分けの一人だ。サンベルナド・ド・カンポ市の南洋行(ひろゆき)市議会議長の実兄にあたる。
 父・常男さんは1930年代前半にノロエステ線リンスに入植、養蚕を営み、地元のフィアソン・テルセラ・リネンセ社(ジョアン・ベント・フェレイラ・ダ・シウバ社長)に産品を納入していた。同社長がモコカ出身であったことから、当時蚕の病気が広まっていたリンス周辺ではなく、新しい養蚕村を建設する計画が立ち上がった。南さんによれば55年以前、モコカには日本人は2家族しかいなかった。
 モコカ市近郊に540アルケールの土地を購入し、54年1月に定礎式が行われた。養蚕振興だけでなく、製糸工場の建設まで視野に入れた計画だった。サンパウロ産業組合中央会により、パウリスタ線ガリアの小川高明氏宅でモコカ産業組合が53年に設立された。理事長にリンス在の養蚕家、牧野守一(もりいち)氏、専務理事に小川氏、そして当時ブラジル有数の養蚕家だったガリアの山本重夫氏が常任理事を務め創立者となった。(『サンパウロ産業組合中央会35年の歩み』188頁、69年)
 同市内在住の水野進さん(74、福島)によれば、日本からの戦後移民第1陣は54年の4家族、第2陣は55年の13家族など全部で36家族が戦後導入された。水野さんは第2陣で「最盛期には全部で66家族があそこに住んでいた」というが今はわずか3家族しか残っていない。
 なぜ衰退したかといえば「桑の木が育たなかった」という致命的な弱点があった。植民地先発隊として入植した小川専務が100ヘクタールに約35万本の桑苗を植え付けたが、殆どが枯死してしまった。
 55年入植組の小池美次さん(よしつぐ、78、長野)も「米、トウモロコシなどで凌いだ。養鶏をはじめて鶏糞で土を肥やし、漸く桑が育つようになるまで10年の歳月が必要だった」との苦い思い出を振り返る。その間に櫛の歯が抜けるように植民者が脱耕していった。「それでも植民地は20〜25年ぐらい続きました。最後にはデカセギや大学進学で若者がいなくなってしまった」。
 水野さんも「もう少しミナス側にいくとテーラ・ロッシャになるが、この辺は土地が悪い」と捕捉する。前日の雨がたたって、植民地内の未舗装道路にバスが入れず、一行は境界線のパルド川にかかる橋から眺めた。
 夜はセントロで歓迎会があり、近隣に転居したアスパーゼ出身者十数人が集まった。50キロ離れたイトベ市に住む佐元(さもと)昭教さん(あきのり、69、山口)は、「13歳で親に連れられてきて、今までエンシャーダひいてるよ」と笑った。11年間、同植民地にいたが「将来性がいから」と転居し、現在は60アルケールの土地で雑作をしている。(つづく、深沢正雪記者)

写真=アスパーゼ殖民地の様子(上)/水野さん