懐旧と復活のモジアナ線=第36回県連移民の故郷巡り=第6回=移民の原点グァタパラ=「祖父の墓参りしたい」

ニッケイ新聞 2011年4月27日付け

 ジャボチカバウ日伯協会の数少ない一世、徳永徳雄さん(77、熊本)は7歳の時、1941年1月15日サントス着のもんてびでお丸で渡伯した。太平洋戦争が開始するその年だ。「日本では食べ物に困った。白飯食べられるのは病人だけ。ブラジルでも食べ物には困ったが、日本よりは全然よかった」とふり返る。サンマルチン耕地に配耕され、モジアナ線を転々とするも1962年にジャボチカバルに居を定め、以来半世紀も根を張っている。「あの頃はまだ小さな村だった」。
 一世が中心の時代はセントロにある会館で、新年会や天長節をやっていたが、10年以上前に人がいなくなって中止された。若い人が中心になってこのカンペストレを購入し、市の記念行事に参加するようになり、「ガイジン向けの金儲けイベントがきっかけとなって二世を中心に盛り返している。今ここで頑張っているのは、遠い町から仕事でここに来てそのまま住み着いた二世の人たちだ」と興味深い盛衰パターンを解説した。
 サンカルロスも大学の存在によって優秀な日系二世を集め、それが日系団体の再活性化の起爆剤となった。ここでも農大という存在によって二世が集まり、一世の減少とともに彼らに日系団体の主軸が移り変わっていく流れが透けて見える。
 地元勢から日本舞踊やカラオケが次々に披露され、婦人部による心づくしの食事を堪能し、最後に「ふるさと」を合唱して満ち足りた気分で一行は会館を後にした。
 参加者の一人、高良幸一さん(たから・こういち、75、沖縄)は「この土地みて農大の話を聞いたら、もういっぺん農業をやってみたくなった」と笑った。
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 「グァタパラで私のお祖父さん、TIOTA・HIROTAの墓参りができることを期待して参加しました」。故郷巡りの参加者の一人、石田よりこさん(71、二世)=サンパウロ市在住=は出発当初から何度もそう語っていた。弘田一族は今も毎年1回集まって供養を欠かさないのだという。ご先祖を思う二世の気持ちが、この旅への参加を思い立たせたようだ。
 故郷巡り2日目、3月27日午後4時頃、一行は4カ所目の日系集団地、グァタパラ移住地に到着した。さっそく会館で出迎えを受け、グァタパラ新聞の編集長、田中万吉さんに石田さんを紹介すると、「残念ですが、グァタパラ耕地監督だった弘田千代太さんのお墓は、ここから23キロ離れたリンコンにあります」とすまなそうに語った。
 同文協の川上淳会長はあいさつで「笠戸丸移民23家族、88人がグァタパラ耕地に入った。日本移民が入った耕地の中で、義務農年を全うしたのはここだけだった。それがあったから第2回旅順丸につながった。我々の先輩が、日本移民という流れをつなぎとめた」と移民の原点たる同地の意義を強調した。
 同文協副会長の林良雄さんの労作『我がグァタパラ耕地』(2011年版、218頁)によれば、同耕地には笠戸丸以来、1934年までに、実に延べ1千家族もがコロノ生活をした。さらに1910年代に建設された最初の植民地の多くはここにいた移民が分かれて入植していることから、確かに同地は〃日本移民の原点〃として移民史に輝く存在といえる。(つづく、深沢正雪記者)

写真=徳永徳雄さん(上)/石田よりこさん