仲村渠琉球民謡研究所=初の発表会、盛大に開く=創立15周年の節目に=母県から応援も駆けつけ

ニッケイ新聞 2011年4月30日付け

 仲村渠琉球民謡研究所(仲村渠清徳代表)は沖縄県人会館で25日、創立15周年を記念し、初となる発表会を開催した。会場には300人以上が訪れ、生徒約140人が練習の成果を披露した。母県沖縄からも在那覇ブラジル名誉領事の西原篤一さんら3人が参加、琉球舞踊や祭り太鼓も会場を盛り上げた。

 15年目にして初となる同研究所の発表会は、仲村渠さんの功績を讃える数々の祝辞で開会された。
 遠く沖縄から来伯した上原政雄琉球民謡協会会長は、「異国ブラジルで琉球民謡の保存継承と普及発展への貢献に感謝。島唄は沖縄とブラジルとの文化の架け橋となった」と長年の苦労を労った。
 生徒代表の金城みえ子さんは、「15年間、毎週休むことなく私達を指導してくれた。大変尊敬している」と語った。
 仲村渠師範は謝辞のなかで、師だった前琉球民謡協会ブラジル支部長の与那嶺清吉氏や友人知人へ感謝の意を表し、「出演者一同、感謝を込めて練習の成果を披露したい」と宣言した。
 続いて、今回新たに民謡の教師となった安里時雄、上原盛幸、照屋マウロ3氏に教師免許が伝達され、ブラジルでの琉球民謡の更なる発展を祝した。 演奏プログラムは、全生徒の「かぎやで節」で幕を開けた。琉装に身を包んだ生徒達が三線の音色を響かせ、会場からは手拍子が湧き起こった。
 その後、各地のグループに分かれて次々と披露された。中にはキーボードやエレキギターを取り入れた曲もあり、ブラジルで発展する民謡の新しい形を紹介。仲村渠師範は地謡としてほとんどの演奏に参加し、弟子の発表を見守っていた。
 沖縄から来伯した西原篤一名誉領事は、自作曲「ウチナーンチュ」を思いたっぷりに歌った。
 また、発表の合間には古武道神武会のグループによる力強い踊りや、玉城流小太郎会・玉扇会の流麗な舞が花を添えた。
 会場の席は常に満員で、300人以上が演奏に耳を傾けていた。在聖日本国総領事館の大部一秋総領事は、「日本の反対側のブラジルで本場の琉球民謡が見られることは大変喜ばしい」と笑顔で話していた。
 最後は琉球国祭り太鼓が演奏され、来場者は太鼓の音に合わせて笑顔でカチャーシを踊り始め、ステージと客席は渾然一体となった。
 発表会は当初閉会を予定していた午後8時を大幅に過ぎ、午後10時過ぎに幕を閉じた。

—唄心悟うてぃ導かな人道—

 沖縄の心伝え三世代。仲村渠清徳さんは1949年、沖縄県小禄村字大峰に生まれ、6歳の時家族と共にブラジルへと移住した。琉球民謡の教師だった母正子さんの三線を聞きながら育ったことから自然と三線をさわるようになった。
 「母に教えられてヌグイドウチ、イサヘイヨ、ウミシノビの3曲を弾ける様になった。三線は頑張って練習すれば弾けるんだという喜びを知りすぐに好きになった」と語る。
 来伯後は仕事に家業に忙しかったが三線の勉強は続けた。「始めは三線を教える気など全くなかった」だが、努力すれば弾けるという喜びと、母から教わった三線を伝えたいという思いから教師になる事を決意。琉球民謡協会ブラジル支部初代会長だった故与那嶺清吉さんに師事するようになる。
 96年に教師免許を取得し、自宅に仲村渠研究所を開いてから15年。2000年には故与那嶺さんの跡を継ぎ会長となり、今では長男の清喜さんも琉球民謡の教師となり、ブラジル各地を回って教える父を支えている。
 母に教わった沖縄の心は子へと伝わり、ここブラジルで次の世代へと着実に育っている。