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東日本大震災=けっぱれ! 岩手=立ち上がる被災地を歩く=第3回=2年後の式典出席したい=県人会との深い所縁もつ

ニッケイ新聞 2011年6月2日付け

 山田町の古い病院の一室を借りてスーパーが仮店舗を開けた。5月10日午後3時半、松本トミさんがそこで買い物をしていたら、ラジオからなにやら聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 「誰だろう・・・。あっ、千田さんだ!」。思わず心の中で叫んだ。ブラジル岩手県人会の千田曠曉会長はIBC岩手放送のラジオ部門特別番組にサンパウロ市から電話で生出演し、義捐金が集まって県に届けましたとの報告をした。「向うは夜中でしょ、びっくりしました」。思いもよらぬことでとても元気付けられたという。
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 松本さんは4人姉弟の一番上、20歳で渡伯した末っ子が岩手県人会顧問の藤村光夫さんで、義捐金を母県に届けに5月に訪日した。松本さんの夫・定次郎さん(09年1月に逝去)の家族も実はブラジル移住した。夫の兄・安倍儀郎さん(ぎろう、08年4月に逝去)はかつて同県人会の事務局長として知られた人物であり、当地と所縁の深い家系だ。
 02年には夫のもとに父がブラジルで95歳になったとの手紙が届き、いてもたってもいられずに渡伯し、なんと60年ぶりに対面した。家族のうちで定次郎さんだけが親戚に預けられて日本で育った歴史は、まるでNHKドラマ「ハルとナツ」を思わせる。子供だった定次郎さんは「自分も連れて行ってくれ!」とブラジルに出発する儀郎さんらに泣いてすがったというから、劇中の場面そのものだ。
 意外なことに、実際に番組を見終わった定次郎さんは「こんなのニセモノだ。本当の感情を表していない」と言い放ったという。心底帰国したかったが、戦争のために果たせなかった。そんな戦前移民の無念さが十分に描かれていないと考えたようだ。
 松本さんは6回も来伯し、計1年間も滞在している。「親戚が増えたので3カ月いないと全部回れない」と笑う。
 08年6月の来伯時には同県人会50周年式典、移民百周年式典にも出席した。00年にパラグアイから研修生が来日し、山田町の国際交流協会で歓迎会をした縁で同国との絆も続き、昨年のピラポ移住地50周年式典にも出席、その足で当地にも立ち寄ったばかり。
 百周年の時にはニッケイパラセホテルの付近で皇太子殿下がお通りになるのを心待ちにし、サンパウロ市式典会場ではちょうど殿下がお座りになる真正面に座ったことが記憶に新しいという。
 日系社会へのメッセージを尋ねると、「このたびの三陸大津波では、みなさんにご心配をかけました。私たちはいち早く避難していたので助かりました。町は7割方無くなってしまったけども、みんな気を取り直して立ち直ろうと動き出しています。何年かかるか分らないけども、がんばっております。ご心配かけましたがご安心ください。日本全国からのボランティアのみなさんに助けられました。ブラジルのみなさんからも義捐金までいただき、感激しております。本当にありがとうございました」と目を潤ませながら語った。
 「電話設置からがれき整理まで、日本全国のボランティアの方が本当にすごいんです。ありがたいと思いました」。
 さらに、「再来年は県人会の55周年。今のままの体調なら、ぜひ行きたいと思っています」と力強く付け加えた。(つづく、深沢正雪記者)

写真=左から夫、儀郎さん、トミさん、儀郎さんの妹のけいこさん、その夫(90年代前半、サンパウロ市で撮影)


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