エ紙論説委員への道のり=保久原ジョルジ講演=投獄経験から百周年まで=「4年前に日系と自覚」

ニッケイ新聞 2011年7月7日付け

 「4年前に日系であることを自覚した」。サンパウロ人文科学研究所(鈴木正威所長)が主催する研究例会が6月20日に文協会議室で行われ、エスタード紙論説委員の保久原ジョルジ淳次さん(64、二世)が「ブラジル人ジャーナリストがみた日系社会」をテーマに講演してポ語でそう語り、約50人が熱心に聞き入った。自らの経歴の恥部であった投獄歴まで晒しつつ、人文研への提言、百周年前後を機に日系としての自覚を改めてきた精神的な道のりを赤裸々に語った。

 1966年にUSP工学部に入学し、その頃、政治活動に関係して投獄された経験には、固唾を飲んで聞き入った。「2カ月ほど投獄され出て来た時に、家族はちゃんと受け入れてくれた。でも家族の名を汚さないようにとの母親の態度から、投獄されていたことは家族以外には秘密にすべきことだと感じ、つい数年前まで親戚にすらその事実を知らせなかった」。
 ジャーナリスト学科に入学しなおし、在学中に新聞社に入社して仕事を始めてしまったため、そのまま中退し、記者としての経歴を積み重ねた。途中、サンパウロ州政府の広報官として4人の知事に仕えたが、再び新聞社に戻り、エスタード紙の看板たる社説頁を担当する論説委員に登りつめた。
 エスタード紙が04年から百周年の08年まで日本移民特集を出した時に編集に関係し、07年にはポ語著書『O Sudito: Banzai Massateru(臣民=万歳、正輝)』を執筆する過程で文協や人文研に近づいた。
 「4年前まで自分はただのブラジル人だと思っていた。本の出版や百周年を通して自分が日系人だと〃発見〃した。自分の中には、子供のころに父母から教えられた正直さ、勤勉さなどの価値観が植え込まれている。今は、それを次世代に伝えていくことが自分の役目だと思っている」としみじみ語った。
 人文研の移民研究テーマとして、「日本移民の左翼思想史、軍事政権時代の日系左派過激分子の活動史はどうか。移民社会内はなぜ長いこと異民族間結婚に反対が多かったのか。その他、経済的に成功しなかった移民は今まで注目されたことがない。例えば貧民窟に住む日系人の実態調査とかはどうだろうか。地方を放浪し続ける日系人、移民史の恥部である売春や近親相姦」と次々に新規なアイデアを開陳した。
 コロニア内部への調査だけでなく、連邦政府のあり方に関しても「30年代後半、ブランキアメント(白人導入による人種の漂白化)を標榜する当時のブラジル政府による日本移民受入れは、けっして平和的なものではなかった。事実、日本人受入れ禁止直前までいった。当時の大衆もけっして日本移民に好意的ではなかった。差別はありふれていた。戦後ですら、下手糞なポ語のマネをしてジャポネス・ガランチード・ノ?と馬鹿にするのは日常的だった」とし、調査を深めることを提案する。
 「今でこそ、寿司や刺身を食べない方がおかしいと思われるようになったが、かつては生の魚を食べるのは野蛮人のすることではないと説明するのが大変だった。ブラジル発展に貢献した日本民族が、なぜそんな遅れた習慣をもっているのかと疑問を持たれた」としみじみ振り返る。
 最期に、「我々は次の百周年について責任がある」と締めくくった。